さまざまな憲法に関する議論があります。憲法を改正しよう、このまま守ろう、あるいは自主憲法を制定しようというものなど、政党の政治的な提案や新聞社の提案をよく目にします。
聖徳太子の作った憲法十七条はやまとことばでは「いつくしきのりとをあまりななをち」と言いますが、「いつくしきのり」とは「厳かな規範」というような意味です。
長い間、日本では憲法は國體法を指し示すもので、文化的あるいは伝統的な側面と技術的な側面を規定したものと考えられてきました。歴史的な時間という軸に、その中で育まれてきた文化や精神という軸、そして技術的な規定としての規範という軸によって織りなされた立体的な構造を、文章として平面に投影したものが、一般的に言われる成文憲法ということになります。
このような観点からみれば、自主憲法はすでに存在していることになりますし、「厳かで変えてはいけない」ものと、時代や環境の要請によって変更される「技術的な部分」とを混同して議論し、伝統的・文化的側面を無視し、技術的側面だけを見て、条文をいじって改正する、白紙にして作り直すということは容易にできるものではありません。
日本の長い歴史の中で、神々の御神勅、天皇の御詔勅、天皇の御製や万葉集などで表現された精神や感性など、日本人が掟として、あるいは手本として尊重してきたものがたくさんあります。それらが日本を日本たらしめる、日本人を日本人たらしめることに関わっています。
そういったものを知っておくのも、日本が日本であるため、日本人が日本人としての自己を認識する一助になるのではないかと考え資料室を作りました。
憲法に関して考えるときに活用していただければと思います。
資料室 - 日本の「典」と「憲」
http://jiritsusaisei.blogspot.com/p/blog-page.html
2011年2月6日日曜日
2011年2月5日土曜日
「日本人が知ってはならない歴史」
「日本人が知ってはならない歴史」の著者 若狹 和朋氏の自己紹介~歴史講座(?)。
教科書では決して教えられない日本の近代史。
企んだ人達↓
http://congresswakamiya.web.fc2.com/index.html
教科書では決して教えられない日本の近代史。
企んだ人達↓
http://congresswakamiya.web.fc2.com/index.html
2011年2月4日金曜日
君が代について考える
私が「君が代」を初めて教えてもらったのは、小学校の時の音楽の時間でした。
音楽の先生が、「賛否両論あるけれど、国歌を歌えないのは恥ずかしいから。」と言って一回だけ教えてくれました。何だかこっそり神妙になって教えてくれたような記憶があります。
行事で流れることはあっても、一回で覚えられるわけがなく、その後父が何かの時にすっごく上機嫌で教えてくれたことがあって、まあ行事の度に歌うように心がけてやっと歌えるようになったというところです。
本日はこのように国歌なのにどこか余所余所しい思い出のある君が代について考えてみます。
君が代の出自には諸説ありますが、
「歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)。(wikipediaより)
だそうです。
他にも元の元は万葉集の挽歌だという説や、九州王朝時代を期限とする説もあるようですが、賀歌として庶民に親しまれ、江戸時代初期の流行歌「隆達節」にも唄われたとか。
この「隆達節」というのは日蓮宗の僧侶、隆達が創始した江戸時代の流行歌。
ボストン美術館には隆達自身の描いた屏風があるそうです。
六曲一双の屏風に、遊里の情景が描かれ、最初の第一首が『君が代』の歌詞と同じ歌で始まり、
[一面]
おもいきれとは身のままか誰かはきらむ恋のみち
雨の降る夜の独り寝はいずれ雨とも涙とも[二面]
人は知るまじ我が仲を頼むぞ側の扇も帯も
この春は花にまさりし君持ちて青柳の糸乱れ候[三面]
花を嵐のちらすような雪に袖うち払ひ誰かおりやらうぞの
悋気(りんき)心か枕な投げそ投げそ枕に咎はよもあらじ[四面]
月もろともに立ち出でて月は山の端に入る我は妻戸に
そなた忍ぶと名は立ちて枕並ぶる間もなやの
と続くのだとか。
うーん、ラテン系にも劣らぬ情熱的なおうた!!
「遊里で歌うような恋歌を国歌にだなんて、何とはしたない!!」
なんておっしゃる有識者の方々も残念ながら中にはいらっしゃるようですが、遊女に惚れこんで多額の資金をつぎ込んで結婚を果たした人もいますし、そのための身請けというシステムも確立していました。
人は恋をして家族を作ります。
生命体が、細胞という基本単位から成り立っているのと同じように、国家は家族という基本単位からできています。
だから国家と書くのです。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
君とずっと一緒にいられますように。
小さな石が大きな岩となって苔がむす、その先まで、この時が続きますように。
恋歌と考えた時の意訳ですが、愛しい人への想いが、国家への想いと繋がる。
こんなに短い歌で、大事な事を表現している国歌、なかなかないですよね。
1903年にドイツで行われた世界国歌コンクールで1位受賞するという名誉は伊達じゃないです。
音楽の先生が、「賛否両論あるけれど、国歌を歌えないのは恥ずかしいから。」と言って一回だけ教えてくれました。何だかこっそり神妙になって教えてくれたような記憶があります。
行事で流れることはあっても、一回で覚えられるわけがなく、その後父が何かの時にすっごく上機嫌で教えてくれたことがあって、まあ行事の度に歌うように心がけてやっと歌えるようになったというところです。
本日はこのように国歌なのにどこか余所余所しい思い出のある君が代について考えてみます。
君が代の出自には諸説ありますが、
「歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)。(wikipediaより)
だそうです。
他にも元の元は万葉集の挽歌だという説や、九州王朝時代を期限とする説もあるようですが、賀歌として庶民に親しまれ、江戸時代初期の流行歌「隆達節」にも唄われたとか。
この「隆達節」というのは日蓮宗の僧侶、隆達が創始した江戸時代の流行歌。
ボストン美術館には隆達自身の描いた屏風があるそうです。
六曲一双の屏風に、遊里の情景が描かれ、最初の第一首が『君が代』の歌詞と同じ歌で始まり、
[一面]
おもいきれとは身のままか誰かはきらむ恋のみち
雨の降る夜の独り寝はいずれ雨とも涙とも[二面]
人は知るまじ我が仲を頼むぞ側の扇も帯も
この春は花にまさりし君持ちて青柳の糸乱れ候[三面]
花を嵐のちらすような雪に袖うち払ひ誰かおりやらうぞの
悋気(りんき)心か枕な投げそ投げそ枕に咎はよもあらじ[四面]
月もろともに立ち出でて月は山の端に入る我は妻戸に
そなた忍ぶと名は立ちて枕並ぶる間もなやの
と続くのだとか。
うーん、ラテン系にも劣らぬ情熱的なおうた!!
「遊里で歌うような恋歌を国歌にだなんて、何とはしたない!!」
なんておっしゃる有識者の方々も残念ながら中にはいらっしゃるようですが、遊女に惚れこんで多額の資金をつぎ込んで結婚を果たした人もいますし、そのための身請けというシステムも確立していました。
人は恋をして家族を作ります。
生命体が、細胞という基本単位から成り立っているのと同じように、国家は家族という基本単位からできています。
だから国家と書くのです。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
君とずっと一緒にいられますように。
小さな石が大きな岩となって苔がむす、その先まで、この時が続きますように。
恋歌と考えた時の意訳ですが、愛しい人への想いが、国家への想いと繋がる。
こんなに短い歌で、大事な事を表現している国歌、なかなかないですよね。
1903年にドイツで行われた世界国歌コンクールで1位受賞するという名誉は伊達じゃないです。
2011年2月3日木曜日
節分祭に行ってきました
本日は大國魂神社(おおくにたまじんじゃ/東京都府中市)にて節分祭が行われていたので、行ってきました。ちなみに大國魂神社の鳥居は、御影石製では日本一と言われているそうです。神紋は菊の御紋。
節分に神社へ行くのは、実は初めてです。
やはり初詣や他のお祭りと比べて人は少ないですね。
旧正月や豆まきは地味なんでしょうか?平日と言う事もあるのでしょう。
境内では某戦隊の方々やどらえもん、ミス府中等の方々も参加され、力強く豆を投げておりました。(特にブルー)
また、大國魂神社には神楽殿があります。
神楽が奉納されておりましたのでしばし見物。後で調べてみた所、
「江戸里神楽 山本頼信社中(やまもとよりのぶしゃちゅう)」による里神楽で、国指定重要無形民俗文化財になっているそうです。
今までなら通り過ぎていたと思いますが、祭祀などを意識しだすと興味が湧くものですね。
皆さんも近くの神社について少し調べてから行ってみると、新たな発見があるかもしれません。
自尊自立のための家庭の医学
これから数回に分けて、病気やからだのことについて少し考えてみたいと思います。
2. オステオパシー
3. サイコパシー
4. ホメオパシー
始めから見たい方はコチラ↓(ガン治療のウラ 1/8)
http://www.youtube.com/watch?v=fS4qhZE0P5Q
ほんの200年くらい前までは共存していたこれらの流派が現在では1.~4.は下火となり、あまり一般には知られていません。
健康に気を遣ってる方って結構多いと思います。
雑誌やテレビでこの食べ物が○○に良いという情報などには何かと敏感になったりしますよね。
でも病院に行ったときなどは、質問しようにも何を聞いたらいいか分からない、訊ねてみたけれど先生の言うことは分かったような分からないような・・・うーん。
まぁ専門的なことはお医者さんにお任せしましょう。
そんなかんじで自分には専門的すぎて理解できないだろうという思い込みから、いろいろな勘違いをしていたりすることってあると思います。
19世紀初めまでは、医学にも5つの流派があってそれぞれ共存していたといいます。
1. ナチュロパシー
自然療法
食事療法を中心に自然に任せた生き方や食べ方をして体の自然治癒力を取り戻そうとする療法。このナチュロパシーを行うところでは現在アロマテラピーやインドのアーユルヴェーダやホメオパシー、フラワーエッセンスなど様々な療法を取り入れているようです。
2. オステオパシー
いわゆる整体のような手技を用いて、体のゆがみを取る事で自然治癒力を引き出すもので具体的には骨格のバランスの調整、脳脊髄液の流れの調整、内臓の活性化などを行います。
3. サイコパシー
心理療法(サイコセラピー)
教示・対話・訓練などを通して行動や認知に変容をもたらし、心の問題を取り除く事によって心身の健康を維持増進しようとするものです。
4. ホメオパシー
同種療法
「ある症状を引き起こすものはそれと似た症状を取り除く」という原理をもとにその症状と似た状態を引き起こす物質を極限まで薄めたものを摂る事によって自然治癒力を刺激し、かかりきれずにくすぶっている症状を押し出すという療法です。
5. アロパシー
逆症療法 いわゆる現代医療
下痢をしたら下痢止め、痛い時は痛み止め、などの投薬や悪いところは切り取るなどにより症状を抑える、取り除くことで症状が無くなる事を治癒とする療法です。
始めから見たい方はコチラ↓(ガン治療のウラ 1/8)
http://www.youtube.com/watch?v=fS4qhZE0P5Q
ほんの200年くらい前までは共存していたこれらの流派が現在では1.~4.は下火となり、あまり一般には知られていません。
下火になったのは、医学として間違っているからなのか?
これらの療法は、エセ、非科学的、気のせい(プラシーボ効果)、トンデモなどと頭ごなしに批判されることがあります。
しかし現代医学では匙を投げられてしまった患者さんが医師が説明が出来ない「奇跡」などと呼ばれる回復をすることがあります。
これを「例外的」「奇跡」で片付けてしまい、なぜそうなったのかを追究しようとしない態度が果たして科学的であると言えるのでしょうか。
どの療法も医学であり、それぞれに良い点と限界があるのだと思います。
(個人的には大まかに、症状を抑える手法と、症状を自然治癒力の働く過程と見なすか、の2つに分類されると思っています。)
(個人的には大まかに、症状を抑える手法と、症状を自然治癒力の働く過程と見なすか、の2つに分類されると思っています。)
5.のアロパシーも救急のケースや外傷による外科治療、症状が激しすぎて著しい体力の消耗や生命の危機にある時に一旦症状を抑えるという点で非常に有効な医学です。
ただ現代はアロパシーに偏り過ぎている気がします。アロパシー以外ご存じない方の方が多いのでは?と思います。
病気とは悪いもので、私たちに苦しみだけを与えるものなのでしょうか?
病気と闘うのが正解なのでしょうか?
その答えは1.~4.の療法の中にあるのではないかと思います。
古代ギリシャの「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスは「人間が病気になるのも、自分自身を修復するのも自然の働きであり、病気を治すのは患者自身が本来持っている自然治癒力である」と言いました。(『ヒポクラテス全集』より)
古代ギリシャの「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスは「人間が病気になるのも、自分自身を修復するのも自然の働きであり、病気を治すのは患者自身が本来持っている自然治癒力である」と言いました。(『ヒポクラテス全集』より)
まずは食事。食べるものと、その食べ方ですよね。その食べた物で私たちの体が出来ている、細胞が作り換えられているのであれば、一番最初に見直すのは食事ではないかと思います。
またホメオパシーは病気と闘いませんし、症状を抑えることもしません。どうしてそうなるか、という根本原因を気にしながらも、「こうやったらこうなりました」というのを積み重ねていった経験医学とでも言うべき側面が大きいです。
病気は気が病むと書きますから、心の問題も凄く影響を与えていることは容易に想像が付きます。そういう場合は、心と体を切り離しては病気は治りません。
人間は生きている以上歪みが生じます。なぜなら、肉体という有限のものの中に、生命力という無限性のものを閉じ込めた存在だからです。物質の集合体が生命体として動いていることを科学で説明しきれないのはなぜでしょうか。まだそこまで科学が発達していないからでしょうか。それならば自然科学も唯一絶対の万能のものではないはずですよね。
またホメオパシーは病気と闘いませんし、症状を抑えることもしません。どうしてそうなるか、という根本原因を気にしながらも、「こうやったらこうなりました」というのを積み重ねていった経験医学とでも言うべき側面が大きいです。
病気は気が病むと書きますから、心の問題も凄く影響を与えていることは容易に想像が付きます。そういう場合は、心と体を切り離しては病気は治りません。
人間は生きている以上歪みが生じます。なぜなら、肉体という有限のものの中に、生命力という無限性のものを閉じ込めた存在だからです。物質の集合体が生命体として動いていることを科学で説明しきれないのはなぜでしょうか。まだそこまで科学が発達していないからでしょうか。それならば自然科学も唯一絶対の万能のものではないはずですよね。
どんなことにも当てはまると思いますが、大切なことは、自分は「知らないことがある」ということを知ること、得た情報を自分の直観で選別することだと思います。
正しいのか間違ってるのかを突き止めることが目的ではなく、健康に生きるための知恵を学ぼうということです。選択肢は多い方がいいですよね。直観と呼べるほどの確信はないけど、これは正しいように思うと感じるから・・・試しに少しやってみようかなぁ?とかそんな程度でいいと思うのです。
正しいのか間違ってるのかを突き止めることが目的ではなく、健康に生きるための知恵を学ぼうということです。選択肢は多い方がいいですよね。直観と呼べるほどの確信はないけど、これは正しいように思うと感じるから・・・試しに少しやってみようかなぁ?とかそんな程度でいいと思うのです。
ですので、お薬にばかり頼らずに病気を治すには、本当に健康になるためには、という観点から少し体のことについて勉強していきたいと思います。
よろしければお付き合いください。
2011年2月1日火曜日
節分 心の中の鬼
今日から2月です。近々の日本の行事といえば節分がありますね。
「節分」とは文字通り季節の分かれ目という意味だそうです。
今年の立春は2月4日です。その立春の前日を節分といっていますが、本来は立夏、立秋、立冬すべての前日を節分といいます。
いつもいつもではないのですが、立春は旧暦のお正月とほぼ同じ頃にやって来ることもあり(立春正月)、節分が年の区切りとして最後の日となることもあったことが、他の3つの節分よりも思い入れがある日となって残っているのかもしれません。
さて節分では「鬼は外 福は内」という掛け声とともに豆を撒き、撒いた豆を歳(数え年)の数だけ食べます。
季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われてきたそうです。
季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われてきたそうです。
また地方によって少しずつ違う風習があるようです。奈良県吉野の蔵王堂の節分会は「福は内、鬼も内」と唱えて全国から追い払われた鬼を救い、仏門に帰依させる行事なんだそうです。
豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。
でもなぜ鬼に豆をぶつけるのでしょうか。
「鬼は外 福は内」は、鬼は福の対極にある悪いものという認識で鬼を捉えています。
「鬼は外 福は内」は、鬼は福の対極にある悪いものという認識で鬼を捉えています。
鬼っていったい何なんだろう・・・
近藤善博著『日本の鬼』によれば鬼とは自然災害、特に雷に由来するのではないかといいます。
平安時代の神社の一覧「延喜式神名帳」の中に、雷神をまつる神社が非常に多いことを挙げています。
そういえば、かみなり様というと鬼の格好をしていますよね。
雷神といえば『古事記』の中に
「蛆(うじ)たかれころろきて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居(を)り、
胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒(くろ)雷居り、陰(ほと)には拆(さ
き)雷居り、左の手には若(わか)雷居り、右の手には土(つち)雷居り、左の足に
は鳴(なり)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、併(あは)せて八(や)はしら
の雷神(いかづちがみ)成(な)り居りき。」
とあります。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、死んでしまった妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)に会いに黄泉の国へ行きます。
そこで国をまだ作り終えていないので帰ってきてほしいと頼むと、伊邪那美命(いざなみのみこと)も、もう手遅れなのだけれど黄泉神(よもつかみ)にお願いしてみますから、その間は覗かないように待っていてほしいと言うのですが、いつまで待っても伊邪那美命(いざなみのみこと)がやって来ません。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は覗かないようにと頼まれていましたが、覗いてしまいます。
その時伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が見た伊邪那美命(いざなみのみこと)は上記のようなうじ虫がいっぱい湧いて体のあちらこちらに雷神(いかずちのかみ)がいるという闇の国の醜い正体と化していた姿でした。
雷神は何を現わしているのでしょうか。
「おに」の語源については『倭名類聚鈔』(937年頃)に「鬼は物に隠れて顕はるることを欲せざる故に俗に呼びて穏と云うなり」とあり「隠(おぬ)が訛ったもの」という説があります。
また節分の豆まきは室町時代から行われていますが、もっぱら暗闇に向かって豆をまいているのだそうです。
更に柊の枝に鰯の頭を刺して玄関にかざすという風習もありますが、これは鬼の侵入を防ぐためです。やって来た鬼に対峙して追い払うというより入って来るのを防ぐという行為です。これは姿が見えないものと思われていたからではないでしょうか。
また昔話には鬼が登場するのは真夜中で、夜明けを告げる鶏が鳴くとあわてて退散するというお話が多いそうです。
ヨーロッパでも鶏は闇の悪霊を追う鳥とされているのだとか。
このことから思うに昔の人々は鬼とは目に見えないもの、姿のないもの、暗闇の世界、そういうイメージで捉えていたのかなぁという気がします。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は男性の神様、陽の働きを代表する神様
伊邪那美命(いざなみのみこと)は女性の神様、陰の働きを代表する神様
陽は外に開き、陰は内に窄まる
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は陰陽相対する働きを現わしている神様なので、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が光ならば、伊邪那美命(いざなみのみこと)は暗闇です。黄泉の国での伊邪那美命(いざなみのみこと)の雷神が巣食った姿は暗闇の中で暗闇として存在するように見える「もの」の姿の醜さ、見苦しさを現わしているのでしょう。
姿が見えず災厄をもたらすものは恐ろしいものと感じます。
そしてそれは暗闇、暗黒、陰(かげ)なるものなのですね。
ここまでくると鬼に対して非常にネガティブな印象を持ってしまいますが、古史古伝『九鬼文書』(くかみもんじょ)のように「鬼(かみ)」と読むこともあります。また「かみなり」は昔、雷は神が鳴らすものと信じられていたため「神鳴り」と呼ばれたていたそうです。鬼を神と捉える側面もあったようです。得体の知れないものだからこそ、その中に神がかった力や神聖さを見たのかもしれません。
つまり昔の人々は鬼というものに様々なものを投影していたのでしょう。
投影とは影を投げること、つまり心の見えない部分、見たくない部分を他のものに押し付けてしまうことです。他者は自分の鏡といいますが、これは自分の内面の見えない部分を相手の外面(外に現れたもの)に見ているということです。そして心の見えない部分というのは、大抵がほとんど無意識のうちに見ないようにしている部分のことなのですね。
それを様々な伝承や物語や行事の中の鬼に託していたのではないか・・・
とするならば私たちの心の中にも鬼はいるのかもしれません。
無意識のうちに見ないようにしている部分、それを闇と呼ぶならば、そこに光を当てることによって闇は消えてしまいます。
とても難しいことですが、自分の心の中の都合の悪い部分をあえて見ようとしてみることが鬼に豆をぶつけるということかなぁなどと考えてみたりしました。
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