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2011年7月12日火曜日

文部省が編纂した『国体の本義』

『国体の本義』は昭和13年に当時の文部省が、一流の学者たちを集めて編纂した日本の国柄を書いた書物です。師範学校の必須科目に取り入れたために、これを学ばなければ教員にはなれなかったそうです。
教育に関心がある方は現在の教育指導要領などと比較して読むと面白いかもしれません。
日本の「典」や「憲」などに出てくる文や言葉が現れていので、資料室 - 日本の「典」と「憲」も合わせて読んでいただければ、さらに深く読めると思います。
この時すでに「個人主義の行き詰まり」を指摘しているのが興味深いです。
この『国体の本義』は占領統治期には発行が禁止になった書物の一つ。そんなこともあって「個人主義の行き詰まったまま」今に至るのではないでしょうか。
日本を保守するということは国体を護持することですから、ここに書かれていることは知っていた方がいいかもしれません。




『国体の本義』編纂の趣意

「国体の本義」

一、本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した。

一、我が国体は宏大深遠であつて、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことを懼れる。

一、本書に於ける古事記、日本書紀の引用文は、主として古訓古事記、日本書紀通釈の訓に従ひ、又神々の御名は主として日本書紀によつた。



「国体の本義」緒言

我が国は、今や国運、頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途、弥々多望な時に際会してゐる。
産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。
夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。
文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ) 生ける験(しるし)あり 天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。
明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。

併しながら、この盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。
今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影、相共に現れた感がある。
併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。
我等は、よく現下、内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。


 現今、我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。
抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。
これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。
従つて、そこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。
かかる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て、我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於(おい)て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。

我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。
かかる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。
然るに、これに対して伝統復帰の運動が起つた。
それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。
蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。
かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。
然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、ここに進むべき確たる方向を見出した。
然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。
即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。

抑々、社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於ては、すべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。
個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。
即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。
久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて、益々欧米文化の摂取・醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。

即ち、今日、我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。
而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於て、その打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。
ここに我等の重大なる世界史的使命がある。
乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。



全文はこちらです
http://www.j-texts.com/showa/kokutaiah.html

2011年6月11日土曜日

夫婦の誓い

神前で教育勅語を夫婦の誓いとして唱和する。
素晴らしいと思いますね。
億兆心を一つにするには、夫婦相和しなければ出来ないと思います。
夫婦仲良く助け合って暮らし、子供をもうけて未来につながって行く。新郎新婦のご両親もそう願ってそうしてきたに違いない。その積み重ねがずっと続いてきたし、これからもずっと続いて行く。
過去、現在、未来の一体感みたいなものを感じます。

ご結婚おめでとうございます。
感動をいただけました。

2011年1月25日火曜日

神人共生【テキスト】

ブログ読者の方から「読みたい」というご要望をいただきましたので、朗読の原稿を入手いたしました。


第一回:神人共生

くにからを ただひたすらに まもりぬく いわいまつりし ひとすじのみち

 祭祀とは、くにからを守るための実践的な行動です。観念や理屈の世界ではありません。実践の世界です。お父さん、お母さん、お祖父さん、お祖母さん、そして、さらに遠い遠い御先祖様に感謝し、さらにさらに上にさかのぼれば、御皇室の御先祖様、つまり、皇祖皇宗、八百万の神々へと連なつて行くという確信を抱くことになり、そのことを清く素直に受け止められる者であれば誰しも感激するのです。私たちの御宗家がご皇室であることに感激するのです。
 「すめらみこと」とは、「統一された命」を意味します。私たちと御先祖様のすべて命と霊を束ねれば、その源は天皇宗家となるからです。そして、私たちが生かされてゐるのは、御先祖様から命と魂を途切れることなく受け継いできたことの奇跡によるものです。かたじけなや、申し訳なや、といふ感動と感激、それに恥じらいを感じて、おそれおほき道を歩み続け、そして、いとしい子孫を生み育て、家族はとこしへに生き続けるのです。それを実感して実践するのが祭祀の道です。

 日本書紀によると、推古天皇十二年四月(皇紀1264年)に推古天皇の摂政であらせられた聖徳太子が憲法十七条(いつくしきのりとほあまりななをち)を定められ、その第二に、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは佛・法・僧なり。」とあり、仏教を受け入れました。このことから、我が国の「くにから」が変わったとする考えがありますが、決してそうではありません。なぜならば、その三年後に、推古天皇ご自身が御詔勅を出されましたが、それによりますと、「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみ くにつかみを 祝いまつること、あに おこたることあらんや)とあります。つまり、「仏教」は徳目として「敬ふもの」(観念論)であり、「祭祀」は「怠つてはならないもの」(実践論)ということです。それゆゑ、我が国は、揺るぎのない「祭祀の国」であり、それが國體(くにから)なのです。

 御先祖様は、子孫から見れば「上(うえ、かみ)」の存在であり、それが「神」の意味です。決して、絶対神、唯一神や創造主を意味する「God」ではありません。この「God」を「神」と訳したのは、精神文化面における我が国最大の誤訳と言えます。ともあれ、宗教で説く神仏は理性の働きによる想像の産物であり、人々がそれぞれが信じる神仏はバラバラで一致しません。一致しないことから、それぞれの神仏の優劣に決着を付けるために戦争をするのです。宗教は、人を救うための教えであると言いながら、人殺しをするのです。なんといふ矛盾でしょう。その上に、「この教へを信じなければ地獄に落ちるぞ!」と言つて、人を脅して信心帰依させるのです。恐怖から出発した信心です。こんな信心は本物ではありません。信心ではなく、恐怖心の裏返しにすぎません。また、人の恐怖心や不安を煽つて「宗教的営業の成果」(入信成功)を得るというのは、最も卑劣な行為であり、そのやうな教祖たちは、自らの描いた「地獄」の世界に指定席を持つているはずです。

 そして、このやうな宗教に共通するのは、自らが信心の中心に描いた絶対神や本尊と信者との間には何も存在しないとすることにあります。つまり、御先祖様は全く存在しないものとするのです。御先祖様の彼方に絶対神や本尊があるとはしないのです。その結果、祭祀は全否定されるのです。祖先供養や祖先崇拝を否定します。仮に、祖先供養を認めても、絶対神や本尊への忠誠と信心に反しない限度で認めるだけです。それも法事などと称する宗教的営業として利用するのです。

 これに対し、祭祀の場合は、人を殺しません。敵であつても、その敵の御先祖と我が御先祖とが重なりうることを想起すれば、争いは解消する方向に向かひます。過去に、「宗教戦争」は数限りなくありましたが、「祭祀戦争」はこれまで一度もありません。いわば、祭祀は、御先祖様を御本尊とする宗教のように捉えることもできますが、これが宗教と決定的に異なるのは、それぞれの父母といふ御先祖への「登り口」は違つても、そこから目指す頂上の方向は万人共通の融合一体のものであるという点です。それが「世界のすめらみこと」です。
 祭祀からみると、宗教における神仏というのは、御先祖様の総体から生まれる働きを可視化、具象化したものと捉えることができます。仏が本質(本地)であり、その現象が神々の働き(垂迹)であるとする本地垂迹説という見解がありますが、これと同じやうな方法で捉えるとすると、御先祖様の総体が本質(本地)で、その智恵の働きを個別的に可視化し具象化したものが神仏と捉えればよいことになります。これは、反本地垂迹説といふことになります。

 このやうな祭祀と宗教との関係などについては、國體護持総論(普及版シリーズ)第一巻「くにからのみち」を参考にしてください。そして、この連載においても、回を重ねながら折に触れてさらに詳しくお話する予定ですが、この連載の目的は、あくまで祭祀実践の具体的な事例や手引きなどについて語るものです。

 そこで、今回はその第一回として、「神人共生」について述べます。

 私たちは、祖霊と共に生活しています。御先祖様の「から」(柄がら、體からだ)はなくなつても、「たま」(霊れい)は私たちと共に暮らしてゐます。御先祖様は、たとえ地獄に落ちようとも子孫の家族を守ります。それが見返りを求めない親心です。自分だけ天国や極楽に行つて満足し、子孫などはどうなつてもよいと考へている御先祖もあるでしょうが、真に霊格の高い祖霊は、子孫やその家系を守り続けるのです。
 人には、自分自身を守るという本能があります。しかしもその本能よりもさらに高次の本能として、自分が犠牲になつてでも、命を捨ててでも家族を守ろうとする本能があります。さらに、もつと高次の本能には、自分の命を捨ててでも祖国を守ろうとする本能があります。自分が連綿と続く家族に育まれた存在であることを自覚すれば、家族を守ることは喜びになります。そして、その家族を守つていただいた御先祖様と共に暮らしてゐるといふ感激があれば、朝起きれば、「お早うございます。」と声を出して御先祖様にご挨拶できるはずです。心に思つてゐるだけではダメです。必ず声を出してください。歌を楽しむとき、楽譜を見るだけで声を出さないのでは楽しめないでしょう。それと同じです。声に出して、御先祖様と自分とが共に楽しさと喜びを分かち合えばよいのです。これが「神人共楽」です。

 朝の御挨拶だけではありません。出かけるときは「行つて参ります。」、帰つたら「ただいま帰りました。」、寝るときは「おやすみなさい。」と常に声に出して御挨拶することです。
 単身生活の人、家族などとの共同生活の人など、様々な生活の形がありますが、それぞれの生活の場で、清く聖なる空間を確保してみてください。そこを祖霊の座として、そこに向かつて御挨拶するのです。
 また、食事をするときは、祖霊と共にいただくことを感じながら、柏手を一回して「いただきます。」と声を出してみてください。これは、「神人共食」です。すべては言霊、音霊の世界であり、喜びと感動の表現と共鳴を意味します。

「神人共楽」と「神人共食」。併せて「神人共生」なのです。

平成21年12月22日(冬至)に 南出喜久治著す

神人共生【動画・朗読】

本ブログにイベント情報やブログ記事を提供いただいている國體護持塾様が新しいブログをオープンしました。

私たちは神様とともに生きています。だから、ちゃんとご挨拶も神様にもしましょう♪



日本の国柄についての本質的なことが説明されています。
目を閉じて聴くと穏やかな気持ちになれます。
Podcastも用意されていますので、iPhoneやiPodに入れて通勤の電車の中で聴くといいかもしれません。


ブログはこちらから。
http://kokutaigojijyuku.blog100.fc2.com/

Podcastはこちらから。
http://www.voiceblog.jp/kokutaigoji/

2011年1月20日木曜日

教育勅語と祭祀

教育勅語の意訳ではありますが
優しく語りかけるような、分かりやすい内容ですのでご紹介したいと思います。



国民の皆さん、私たちの祖先は、国を建て初めた時から、道義道徳を大切にする、という大きな理想を掲げてきました。そして全国民が、国家と家庭のために心を合わせて力を尽くし、今日に至るまで見事な成果をあげてくることができたのは、わが日本のすぐれた国柄のおかげであり、またわが国の教育の基づくところも、ここにあるのだと思います。

国民の皆さん、あなたを産み育ててくださった両親に、「お父さんお母さん、ありがとう」と感謝しましょう。兄弟のいる人は、「一緒にしっかりやろうよ」と、仲良く励ましあいましょう。
縁あって結ばれた夫婦は、「二人で助けあっていこう」と、いつまでも協力しあいましょう。
学校などで交わりをもつ友達とは、「お互い、わかってるよね」と、信じあえるようになりましょう。
また、もし間違ったことを言ったり行った時は、すぐ「ごめんなさい、よく考えてみます」と自ら反省して、謙虚にやりなおしましょう。

どんなことでも自分ひとりではできないのですから、いつも思いやりの心をもって、「みんなにやさしくします」と、博愛の輪を広げましょう。
誰でも自分の能力と人格を高めるために学業や鍛錬をするのですから、「進んで勉強し努力します」という意気込みで、知徳を磨きましょう。
さらに、一人前の実力を養ったら、それを活かせる職業に就き、「喜んでお手伝いします」という気持ちで公=世のため人のため働きましょう。
ふだんは国家の秩序を保つために必用な憲法や法律を尊重し、「約束は必ず守ります」と心に誓って、ルールに従いましょう。
もし、国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で「勇気を出してがんばります」と覚悟を決め、力を尽くしましょう。

このような日本人の歩むべき道は、わが皇室の祖先たちが守り伝えてきた教訓とも同じなのです。
かような皇室にとっても国民にとっても「いいもの」は、日本の伝統ですから、いつまでも「大事にしていきます」と心がけて、守り通しましょう。この伝統的な人の道は、昔も今も変わることのない、また海外でも十分通用する普遍的な真理にほかなりません。

そこで私自身も、国民の皆さんと一緒に、これらの教えを一生大事に守って高い徳性を保ち続けるため、ここで皆さんに「まず、自分でやってみます」と明言することにより、その実践に努めて手本を示したいと思います。

明治23年(1890年)10月30日

-明治神宮崇敬会刊『たいせつなこと』より- 引用

(原文)
教育ニ關スル敕語(教育敕語)
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
  御名  御璽


こういうことを教えるのが教育なのでしょうね。
そしてこの教育勅語は、実はそのまま祭祀の道だと思います。
祭祀は、理屈や観念ではなく、実践だからです。
また教育に関する勅語が、そのまま祭祀の実践を説くことにぴったり重なるようになっているのは、それが民族の伝統を受け継ぎ守っていく事に他ならないからではないでしょうか。
祭祀は伝統であり実践すること

難しいことを学んだり考えたりしなくても、まずは出来そうなことから行動すればいいのかなと思います。
それよりも大切なのは怠らない事、習慣にすること、ではないかと思います。
理屈ではなく、とっさのときに自然とそれが出てくるような習慣にすること。

教育勅語の暗誦は、祭祀を体で覚えて理解することに役立つような気がします。

2010年12月22日水曜日

【寄稿・読書録】さらば 在日日本人

日本国憲法とは何か、どのようにできたかについての読書録です。
寄稿いただきありがとうございました。


Ⅰ.国家理念なき憲法ー国家の正当性の欠落

現在では日本国憲法はGHQの押し付け憲法であることは公然の秘密だが、世界最大の軍事大国が戦争放棄の憲法を人類の理想であるからと押し付けるのは冗談にもほどがある。それをするなら自らが放棄してからにせよと言ってみても仕方がないが。
現行憲法の制定過程については多少の紆余曲折はあったが基本的にはs21年2月13日に手交された次の三原則(マッカーサー三原則)に基づいて作成された。
  1. 天皇は国家の首部にある。皇位の継承は世襲である。天皇の義務および機能は、憲法にもとづき行使され、憲法の定める人民の基本意思に対応する。

  2. 国家の主権的権利としての戦争を破棄する。日本は国家の紛争解決のための手段としての戦争および自己の安全を保持するための手段としてのそれも放棄する。日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理念にゆだねる。

  3. 日本の封建制度は廃止される。皇室を除き華族の権利は現存する者一代以上に及ばない。華族の授与は爾後どのような国民的または市民的な政治権力を含むものではない。

いわゆるこのマッカーサー憲法草案が日本政府代表に手渡され それを最大限考慮して改正憲法草案を作成するよう勧告がなされた。ほかのことは独立後変更できるが皇室は一度消滅させられたらとりかえすことができないため、すべてを犠牲にしても皇室の存続をはかるというのが当時の日本政府の方針であった。このような経緯でGHQは日本を弱体化する目的で立法したのが、現行憲法であるが、立法といっても正規の手続きを踏んでいない。そもそもが占領占領下での法改正は国際法違反である。外国憲法には占領下の憲法改正を明文をもって禁止している。

また形式的には明治憲法第73条による改正ということにされたが、GHQが一週間位でつくった英文憲法を日本政府案として提出し、それを審議してあたかも日本の国会が憲法制定したような形を整えたにすぎない。そこで当時の帝国議会(貴族院)は時間切れで審議未了でながしてしまう計画であったが、それも時間切れの5分前で時計は全部止められ強行採決されてしまったのである。衆議院にしてもS21年の4月の総選挙が行われてできたのだが直前に公職追放が行われ、当時の進歩党などは既成議員が90%以上も追放されて候補者がいなくなっていた。さらに当時国民には言論の自由があたえられず、新聞社は厳重な検閲下に置かれており、その検閲のもっとも重要な対象が「SCAPが憲法を起草したことにたいする批判」であった。このような顛末でできあがった憲法がまともであるはずがない。従属国フィリピンの憲法にお湯をかけてたった1週間でできたインスタントラーメンのような憲法なのである。国家は独立国として当然あるべき主権を放棄し逆に国民にはあるはずのない主権を与え国民を「無限の権力」として主権の保有者とする。つまり、国際社会においては殴られても殴り返しませんと表明し、正当な権利を主張せず、国家にたいしては不当な権利を要求して国内騒乱を扇動示唆しているのである。
憲法前文ではそれらが人類普遍の原理だと喝破するのだから恐れいる。現行憲法が我が国を骨抜きするための「占領憲法」である所以だ。憲法はあらゆる国家の基本権(主権、独立、平等、自衛、宣戦布告、交戦、名誉権など)を前提とするが故に成立するわけだが、これはもう実質的には憲法ではなく「独立放棄宣言」かあるいは「国家否定宣言」の類であって条約的性質のものである。そもそも憲法の議論になると第9条が中心になるきらいがあるがこの第9条はそもそも前文に由来する。重要なのは個々の条文よりもむしろ全体を貫く思想であって問題の本質は現行憲法の理念である前文が最大の論点といえる。東京裁判史観によって成り立つ憲法前文の論理は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」という悪い日本政府が間違った戦争を起こしたことを反省するという見解に立脚していて、日本は侵略国であり、国家権力は悪であるということをまず前提としているのだ。そして「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」のはいいとしても、「平和を愛する国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という東京裁判史観に輪をかけたようなウソが書いてある。この世界に公正と信義に信頼できる諸国がどこに存在するのか。国際法のなかでも基本中の基本である「内政不干渉の原則」すら守れない国(中共憲法の前文には相互内政不干渉が書かれている)が近隣にあるのに。このように憲法前文には国家観念を喪失せしめる、もしくは反国家、反権力を賛美する思想が込められているのである。
この思想汚染によって「負けるから軍備をもってもしようがない」という敗北主義がこの国を支配するに至ったのである。
また日本民族の精神生活を縛るために米国から押し付けられた憲法なのだから当然であるが、歴史や伝統を継承していないという意味で常識が欠落した「非常識憲法」ともいえる。
そもそも憲法とはコンスティチューションのことで英国ではじまった考え方だが、この意味するところは、体格、体質、であって、それは国柄である。それをどれだけ憲法に盛り込めるかが大事なのであって憲法には、その国が歴史の中で培ってきた伝統に基づく国柄が)述べられたものでなくてはならない。

Ⅱ.現行憲法の三大悪  平和主義、国民主権、基本的人権

一つ目、最大の害悪は他人まかせの平和主義観念である。「平和を愛する諸国民、、、」は憲法9条と関連したもので、自らの安全も生存も他国に依存しようとする平和主義の「戦争放棄」の根拠はここにある。自らの生存さえも守ろうとしないと決意するとは、まさに奴隷宣言である。欧米では平和主義といえば、その多くが無責任で無関心な者という否定的な意味でつかわれる。

二つ目は憲法前文には「主権が国民に存する」ことが人類普遍の原理だと謳っているが、「国民主権」は人治主義であって「戦後民主主義教」もこの「国民主権」に由来し、法治主義である文明に逆行する。それはハイエクがいっているように「主権」がどこにあるかと問われればどこにもないというのがその答えである。

現在の国際社会を構成している国民国家は、すべて憲法に基づく立憲体制をとっているのであって、「主権」が無制限の権利と定義されるなら、そこの主権の入り込む余地はありえないのだ。ルソーにより「国民主権」が編み出された。誰が絶対的で無制限の権力を握るのかという対立でしかなく、対内的な主権概念は前近代の概念である。本来、主権は最高性、独立性を意味するもので、法によって制限を受けたり権力の分立によるチェック・アンド・バランスによる制約をうける統治権とは異なり、近代では不要で不適合なものであって、主権は絶対主義のイデオロギーなのである。したがって「主権」の用語は国際法上の「国家主権」という意味のみに使用するのが現実的である。

そして三つ目の「人権」についてはアナクロニズムだということである。こんな時代錯誤のスローガンを並べるのが現行憲法である。
人権等がある程度有効であったのは、奴隷制度や人身売買などによって著しく人の自由が束縛されている場合であって、我が国には全く無用であるし現在は国際社会で外交に悪用されているだけで全く益はない。人間ならばだれだって持っている権利が人権なのだというような人間であることですでに何らかの権利を保持しているという前提で成り立っている。これは一神教的な考えに由来するもので、欧米流の一元的な世界観から成り立っている。人間を他の動物より上位に置く独善的で思いあがった思想はわが日本人には理解しがたい観念というしかない。


それに現行憲法では様々な権利が明記されているがいずれにせよ人民の自決権が認められず、国家が奴隷のように外国に従属するような状況の下では権利もクソもない。たとえ人権なるものがありうるとしても、人権そのものの享有が不可能となる。25条で「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などと、謳っているが、個人が化的な生活を営めるのは、その個人を支える共同体の歴史や伝統が守られているからである。国家の独立が許されず、国家の自由が縛られたままで個人の自由などあるはずがなく、個人の文化的生活を保障するのは、国家の歴史や伝統が護持されているが故であって、それが否定された状況で個人の文化的生活が営める訳がない。

「さらば 在日日本人」山下 正仁著 展転社





2010年12月2日木曜日

ちびっ子による教育勅語リレー



すごい!
可愛い!

「身に付く」という事は、繰り返しやってみるということで得られるものだと言われています。
意味がわからなくても繰り返し声を出して読んでいるうちに、何となくわかってくるとも聞いたことがあります。


うけひのもり学園ホームページ http://ukehi.com/

参考までに原文を。

教育勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此
レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ
修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開
キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無
窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス
又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々
服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名御璽

現代語訳はネットで検索すればすぐに見つかるので探してみてください。
この勅語は教育というよりは徳育ですね。
次のような徳目が書かれています。

教育勅語の12の徳目

孝行・・・・親に孝養をつくそう
友愛・・・・兄弟・姉妹は仲良くしよう
夫婦の和・・夫婦はいつも仲むつまじくしよう
朋友の信・・友だちはお互いに信じあって付き合おう
謙遜・・・・自分の言動をつつしもう
博愛・・・・広く全ての人に愛の手をさしのべよう
修業習学・・勉学に励み職業を身につけよう
知能啓発・・知識を養い才能を伸ばそう
徳器成就・・人格の向上につとめよう
公益世務・・広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう
遵法・・・・法律や規則を守り社会の秩序に従おう
義勇・・・・正しい勇気をもって国のため真心を尽くそう

どれもが人が人として生きていくのに大切なものですね。
戦後すぐに教育勅語を学校で復唱させることが廃止されました。
しばしば江戸や明治期の日本を訪問した欧米人が、日本人の礼儀正しさや高貴さを文章に残していましたが、そんな日本人の道徳感が簡潔かつ見事に書かれているのが教育勅語です。

旧漢字仮名遣いですが、これは現代語訳で読んでしまうと、言霊の力が減じてしまいますので、是非原文のまま読んでください。
身に付けるために読むのですから、最初は理解できなくても構いません。

2010年11月14日日曜日

広島被爆地への巡幸

このビデオは昭和天皇が大東亜戦争直後に原爆の被災地である広島を巡幸された時のものです。
とてつもない歓迎ぶりですね。

昭和天皇は爆心地「相生橋」を通過されて、平和の鐘が鳴る中を元護国神社跡で7万人の奉迎を受けられました。
広島市では戦災児育成所の原爆孤児84名に会われ、原爆で頭のはげた一人の男の子の頭を抱えるようにして目頭を押さえられました。
各地で昭和天皇は「生活状態はどうか」、「食べ物は大丈夫か」、「家はあるのか」と人々に声をかけられました。
全国各地の、あまりの熱烈な歓迎、そして禁止されていた日の丸を振る者もあらわれ、危惧したGHQは巡幸を1年間中止にしました。

陛下は戦争で疲弊した臣民を励ますために日本中を巡幸なさいましたが、陛下を迎える人々が逆に陛下を慰めるような事もあったそうです。天皇と臣民の一体感とでも言えるのかもしれません。

この投稿では「臣民」という言葉を使ってみました。
私は国民という言葉に少し抵抗があります。
祖母には「お前は日本人なんだから・・・」のように言われて育ったし、他の人にも「あなたは日本国民だ」なんて言われた事がありません。また、国民という言葉がどこか虚ろな印象を持っていました。
調べてみたら「国民」という概念は「想像上の共同体」のような意味だとか。我が国の歴史上、この言葉が使われるようになったのは最近のことのようです。伝統的な日本の国の在り方から考えれば臣民の方が似合うのかもしれないです。

2010年11月12日金曜日

日本が日本であり続けるために

日本っていいなぁと思う人のために、どうすれば日本が日本らしくいられるか、どうしたら日本がもっと良い国になるか、そんなことを考えるきっかけになる事をときどき書こうと思います。

最初のエントリーは真正護憲論(新日本国憲法無効論)です。
國體護持塾のホームページを見つけてこの理論を読んだ時は衝撃的でした。
人によっては現実の認識を一変させてしまうくらいの衝撃があるかもしれません。
この理論を産んだ南出喜久治氏は、この憲法論を世界の安定を目指す理論体系の序章として位置付けているようです。

國體護持塾のページはこちら。
http://kokutaigoji.com
國體護持総論のページはこちら。
http://kokutaigoji.com/books/menu_kokutaigojisouron.html
旧漢字仮名遣いで書かれているので、最初は読みにくいかもしれませんが。
目から鱗が落ちたという人が続出しています。

また、この憲法論に関連する公開講座のビデオもあります。
YouTubeで検索すればすぐに見つかると思いますが、面倒臭いという人のために、全講座のビデオはここにも置いてあります。
http://portal.artesware.net/~ktsubaki/index.html


次回は経済、神話、文學、何を書こうか悩んでます。
たぶんかなり不定期なブログになると思いますので、気長にお付き合いください。