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2013年1月21日月曜日

日台國體護持兄弟会が発足

Facebookに「日台國體護持兄弟会」のページができました。

台湾の有志と日本の有志が結ばれた共同プロジェクトです。
Facebookのアカウントを持っている方で日台の友好を進めたいと思っている方は是非訪問してください。

台湾は大東亜戦争の後に蒋介石率いる国民党によって統治されます。それまでの台湾は日本の領土であり、多くの日本人が台湾のために働き、多くの台湾人が日本を助けてくれました。

多くの日本人が台湾に親近感を持つのと同様に、多くの台湾人が日本に親近感を持ってくれています。それは2011年の東北における大震災とそれによる津波や原子力発電所の事故による被害を受けた日本に対して、多くの台湾の人々が大規模な義援金キャンペーンを張ってくれたことにも現れています。
台湾は中国の領土ではありません。台湾は台湾という国家であると台湾の人々は思っています。サンフランシスコ講和条約を締結する過程で、日本は台湾という領土を放棄し、連合国がそれを承認します。しかし台湾の帰属先は未定のままです。

日本はサンフランシスコ条約締結の前に、GHQの発議とGHQ管理下の帝国議会において日本国憲法という名前の憲法を押し付けられます。日本国憲法は日本の自立を妨げるという効果を発揮します。独立国の体裁を持っているものの、実質的には米国に依存した体制が続いています。その米国製の憲法を改正しやすくし、憲法9条を改正して国防力を増すという考え方が出てきましたが、政治の流れによっては、この改正しやすい憲法は、例えば天皇の廃位、皇室の解体といった、日本が日本でなくなるような事態に向かう可能性もあります。
憲法に関する議論が増えてきたことは歓迎すべきかもしれませんが、我々は自立した国家となるべく、改正の手続きやその経緯、実効性など、いかがわしい米国製の憲法の有効性にも疑問を持つべきです。有効性の検証は様々な視点で行われてきましたが、日本国憲法は無効であり、我々の正統な憲法は大日本帝国憲法であるという考え方をする人も増えてきました。つまり日本国憲法を改正するのではなく、正統な憲法を復元して名実共に独立した国家として再スタートしようという機運が高まってきたと言えます。

この両国の人々が連携し、日本が正統憲法を復元して真の独立を得て、台湾の人々の希望により一旦日本の領土に復帰した後に、日本が台湾の独立を宣言する。台湾は日本の独立を求め、日本は台湾の独立を求める。両国が同じ目標のために助け合う。そういう兄弟のような連携を提案するのがこのプロジェクトです。
大きな運動になると良いと思います。

2011年2月18日金曜日

八田與一をはじめとする台湾にいきる日本精神レポート

日本ネイビークラブと修学院の合同定例会が2月12日(土)に東京大学本郷キャンパス山上会館にて行われました。
講師は修学院の久保田信之氏です。

「八田與一をはじめとする台湾に生きる日本精神」

序 化外の地・台湾をよみがえらせた日本
今でこそアジアの四小竜の一つと言われる台湾ですが、1895年下関条約により日本の統治下にはいるまでは支配を嫌い、共通言語もない12の原住民族が交流もなく小規模集落を形成する、清朝も手に負えなかった未開の地でした。マラリヤやコレラ等の伝染病、勿論道路も港湾もなく、病院もありません。また、アヘンの風習をもった民族もあったようです。
日清戦争で勝ったものの、この台湾をもらうという事は経済上あまりメリットのある条件ではなかった。しかし、台湾を日本の一部とする以上、日本本土と変わらない豊かな土地にしようと日本政府と派遣された技術者は力を尽くしたのです。
一、台湾開発に見る日本精神
第四代台湾総督・児玉源太郎が民政長官に後藤新平を抜擢。後藤は徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を進めます。
「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という生物学の原則に則った手法をとりました。
結果、後藤は台湾を語るときにはずせない人物となりました。
二、八田與一と日本精神
八田與一は1886年生まれ。幼いころには利水の重要度を実感していたようです。東京帝国大学土木科卒業後、台湾総督府に着任し、衛生工事担当を経て利水事業を担当します。
以下工事内容
今でこそ様々な農産物を生産する台湾ですが、統治を始めた当時は一番広く気候としては四耗作も可能な嘉南平原ですら、流れる河川が尐なくしかも急流の為水利としてほとんど機能せず、穀物の栽培には不向きでサトウキビすら育たない不毛の地でした。それを徹底した現地調査と大胆な発想の下1920(大正9年)着工します。
官田渓(中規模河川)だけでは水量が不足だったため、一山越えた本流・曽文渓から引き込むために烏山嶺をくりぬくトンネルを造ることにします。
セミ・ハイドロリックフィル工法で、粘土、砂、礫、栗石、玉石を組み合わせて堤防を造りました。セミ・ハイドロリックフィル工法とは、堤体上流と下流の両式幅末端の部分に土砂を置き、ダム軸上にあるコンクリートコアからポンプを使い、
水を土砂に吹きかける。すると、軽い土や石はコンクリートコアに向かって流れ、重い岩は式幅末端に残る。これを繰り返し、嵩上げする工法の事で、多尐のコンクリートは使うものの、三面コンクリートの護岸工事と違い、自然に近い工法だそうです。
これは、財政面で常にコンクリートの修理するのが難しく、自然材料のほうが材料調達が比較的しやすかったため。
その他に灌漑用の水路、導水路、放水・制水・分水の為の門を造らねばならなかったし、発電用水路の為に沈砂池も造る必要があったのです。
この工事を行うにあたり、資材を運ぶ道路や鉄道、送電線の設置、その円滑な運用制作の立案と徹底をしました。
また、付属事業として、大きな工事であり、困難を伴って時間もかかるので、働く人たちが安心して仕事が出来る為に家族一緒がよいと主張し、家族も住める宿舎、共同浴場、商店や娯楽施設、更に学校もつくり、200人にもなる一つの街を造り、作業員の福祉にも貢献しました。
総工費は、台湾総統府の総予算の半分である5,400万円。巨額な国費が投入されました。
その結果、当時アジア一と言われた烏山頭ダム(満水面積1000ha 貯水量1億5,000万㎥)および16,000kmに及ぶ灌漑用水路が嘉南平野一帯に完成。戦後、日本の統治の痕跡を消して回った国民党の蒋介石ですら消す事の出来ない実績となり、今でも台湾の農業に欠かせない重要なダムとなりました。
三、 妻もまた台湾の土に還った
1942年フィリピンの綿作灌漑調査を命ぜられ輸送船で現地に向かったが、五島列島沖でアメリカ潜水艦の攻撃に遭い殉職、その遺骸は操業中であった山口県の漁船によって偶然網にかかり引き上げられた。
妻、外樹代も1945(昭和20)年9月1日未明、夫が心血を注いだ烏山頭の放水路に身を投げて後を追った。
四、 評価
1931(昭和6)年7月、八田が作業着姿で考え事をしている姿の銅像が、八田とともに働いた工夫・農民の寄付によって作られた。戦争末期、軍の命令で銅の供出が叫ばれた中も農民がこれをそっと隠し、保存されていました。1946年地元の農田水利協会の人々によって夫妻両名の墓が建立された。墓石も大理石ではなく日本人の風習通り、御影石を高雄まで行き探し求めたそうです。
蒋介石時代に日本が残した顕彰碑の接収・破壊が行われた時にも地元の有志でこれを隠し、1981(昭和56)年1月1日再びダムを見下ろす元の位置に設置されま
す。
その後、現在まで命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行われています。この行事は国民党も無視できず、日本に好意的でないとされる馬英九現総統もこれに出席しています。
2011年5月8日には八田與一記念公園もオープンする予定です。
日本の技術の素晴らしいところは学んだ技術をそのまま猿まねして転用しないということだそうです。そのままでなく、その場所、技術に合わせたものを造る。
そして良いものにする、これはどんなに反発している人でも納得させてしまいます。
講師の久保田先生は「日本の精神と言うのは理屈では語りにくい。」とおっしゃいました。文字にするとわかりにくいものですから、外国人ははじめ、日本と聞くと、偏見を持っているそうです。しかし、実際にその方法を見て体験した人には絶対にわかってもらえる。大和の心は身をもって体験して初めてわかるものなのですね。
過去の日本人は素晴らしかった、良い国に生まれたというのはとても大事な事ですが、それを誇りにし、謙虚に見習っていくことこそが、これからの我々には求められているのではないでしょうか。

2010年12月5日日曜日

日本時代の水道を「世界遺産に!」と沸く台湾

日本時代の水道を「世界遺産に!」と沸く台湾

こちらからの転載です。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1359.html

このほど土木学会は平成二十二年度の「選奨土木遺産」として二十七の構造物を選定した。選ばれたのは札幌市の「創成橋」や仙台市の「煉瓦下水道」、宇都宮市の「鬼怒橋」、日田市の「川原隧道と石畳」等々だが、そこには一つだけ国外のものが含まれている。

「元国内のもの」というべきだろう。台湾の台南県山上郷にある「台南水道」(一九二二年竣工)がそれだ。「授賞理由」は「浜野弥四郎氏の計画・設計と施工監理による、当時の最新技術である急速濾過法を採用した大規模な浄水場である」というものだ。



浜野弥四郎(一八六九~一九三二)は台湾の衛生環境の大改善における大功労者である。

一八九五年、日本が領有した当時の台湾はペスト、マラリア、コレラなどの風土病がつねに猖獗を極め、そのため島民の平均寿命はわずか四十歳程度だった。島内の武力反抗平定のため上陸した日本軍は五千人に近い死者を出したが、そのうち戦死者はわずか百六十人ほどで、四千六百人は風土病に罹った戦病死者だった。

かくして衛生環境の改善を統治政策の要の一つとした台湾総督府は上下水道建設のため、一八九六年に東京帝大の英国人教師ウィリアム・バルトンを衛生工事顧問として招聘したが、その助手として同行したのが教え子の浜野弥四郎だった。

浜野は滞在三年目でマラリアに罹って東京へ戻ったバルトンの任を継ぎ、一九一八年に離台するまでの二十三年間で、当時はまだ東京にも見られなかった先進的な貯水池、上下水道計画を基隆、台北、台中、台南などの主要都市で完成させたのだった。

「台南水道」(現山上浄水場)が出来上がったことで、当時台南市民を悩ませていた飲用水不足の問題は一気に解決を見た。当時の市民人口は六、七万人だが、これによって十万人分の水が供給されるようになったからだ。

このように、浜野の水道建設は台湾を「人の住める島」に変えたばかりか、「近代化の島」へと変貌させて行く上で大きな役割を果たしたのである。

こうした歴史的功績は、日本人は忘れてしまったが、しかし台湾人は忘れていなかった。奇美実業の許文龍董事長は二〇〇五年、山上浄水場に残る浜野の胸像の台座(胸像は戦時中供出された)の上に新たな胸像を設けた。


復元された浜野弥四郎の胸像

またその年、「台南水道」は「国定古蹟」となるなど、その歴史的意義が大きくクローズアップされている。

間もなく台南市と台南県が合併し、直轄市(政令指定都市)としての台南市が誕生するが、先ごろ行なわれたその台南市長選挙で当選した頼清徳氏(民進党)は選挙期間中、「台南水道」を視察に訪れ、「日本統治時代の台湾近代化を物語る重要な歴史建築であり、台南及び台湾の発展史上極めて深い意義を持つ。もし私が当選したら、ここを整備して景観ポイントとし、文化観光事業を推進して、台南の誇りとして再興したい」「台南を台湾の文化的首都とするためにも、ここはまさに最も重視されるべき指標となる」とし、世界遺産への登録申請を行う考えまで示していた。

そうしたところへ届いたのが土木学会による「土木遺産」への認定の報だ。現地では世界遺産への登録申請の機運が盛り上がっているらしい。

実は二十一年度の「選奨土木遺産」では、やはり台南県で八田與一技師が建造した烏山頭ダムも選ばれており、その際も世界遺産申請への夢が大きく膨らんだことがあった(台湾の文化建設委員会は同ダムなどを「世界遺産申請の潜在的ポイント」として登録している。民間でも申請を求める署名活動が行われている)。

これらを世界遺産に登録するには、台湾政府がユネスコに申請しなければならないが、同国はその機関に加盟していないため、申請資格はない。そこで期待が集まるのが日本政府が代理申請するとの方法だ。ただこうした代理申請が認められるか否かは、前例がないためよくわからないらしい。

しかし日本政府が動き出したら、これはとても素晴らしいことだ。こうしたアクション一つで国民は大きく変わる。

自国の近代史に対する愛着、誇りは一気に高まることだろう。またこのように日本の先人の歴史的営みを高く評価してくれる台湾という国の存在に気付き、感動することだろう。

だが仮に日本政府が代理申請を行おうとすれば、中国はきっと妨害の圧力を加えてくることだろう。

全文はこちらを。http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1359.html