2011年2月1日火曜日

節分 心の中の鬼

今日から2月です。近々の日本の行事といえば節分がありますね。

「節分」とは文字通り季節の分かれ目という意味だそうです。
今年の立春は2月4日です。その立春の前日を節分といっていますが、本来は立夏、立秋、立冬すべての前日を節分といいます。
いつもいつもではないのですが、立春は旧暦のお正月とほぼ同じ頃にやって来ることもあり(立春正月)、節分が年の区切りとして最後の日となることもあったことが、他の3つの節分よりも思い入れがある日となって残っているのかもしれません。

さて節分では「鬼は外 福は内」という掛け声とともに豆を撒き、撒いた豆を歳(数え年)の数だけ食べます。
季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊ばらい行事が執り行われてきたそうです。
また地方によって少しずつ違う風習があるようです。奈良県吉野の蔵王堂の節分会は「福は内、鬼も内」と唱えて全国から追い払われた鬼を救い、仏門に帰依させる行事なんだそうです。

豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがあります。
でもなぜ鬼に豆をぶつけるのでしょうか。
 「鬼は外 福は内」は、鬼は福の対極にある悪いものという認識で鬼を捉えています。
鬼っていったい何なんだろう・・・

近藤善博著『日本の鬼』によれば鬼とは自然災害、特に雷に由来するのではないかといいます。
平安時代の神社の一覧「延喜式神名帳」の中に、雷神をまつる神社が非常に多いことを挙げています。
そういえば、かみなり様というと鬼の格好をしていますよね。

雷神といえば『古事記』の中に

「蛆(うじ)たかれころろきて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居(を)り、
胸には火雷(ほのいかづち)居り、腹には黒(くろ)雷居り、陰(ほと)には拆(さ
き)雷居り、左の手には若(わか)雷居り、右の手には土(つち)雷居り、左の足に
は鳴(なり)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、併(あは)せて八(や)はしら
の雷神(いかづちがみ)成(な)り居りき。」

とあります。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、死んでしまった妻の伊邪那美命(いざなみのみこと)に会いに黄泉の国へ行きます。
そこで国をまだ作り終えていないので帰ってきてほしいと頼むと、伊邪那美命(いざなみのみこと)も、もう手遅れなのだけれど黄泉神(よもつかみ)にお願いしてみますから、その間は覗かないように待っていてほしいと言うのですが、いつまで待っても伊邪那美命(いざなみのみこと)がやって来ません。
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は覗かないようにと頼まれていましたが、覗いてしまいます。
 その時伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が見た伊邪那美命(いざなみのみこと)は上記のようなうじ虫がいっぱい湧いて体のあちらこちらに雷神(いかずちのかみ)がいるという闇の国の醜い正体と化していた姿でした。

雷神は何を現わしているのでしょうか。
 
「おに」の語源については『倭名類聚鈔』(937年頃)に「鬼は物に隠れて顕はるることを欲せざる故に俗に呼びて穏と云うなり」とあり「隠(おぬ)が訛ったもの」という説があります。
また節分の豆まきは室町時代から行われていますが、もっぱら暗闇に向かって豆をまいているのだそうです。
更に柊の枝に鰯の頭を刺して玄関にかざすという風習もありますが、これは鬼の侵入を防ぐためです。やって来た鬼に対峙して追い払うというより入って来るのを防ぐという行為です。これは姿が見えないものと思われていたからではないでしょうか。
また昔話には鬼が登場するのは真夜中で、夜明けを告げる鶏が鳴くとあわてて退散するというお話が多いそうです。
ヨーロッパでも鶏は闇の悪霊を追う鳥とされているのだとか。

このことから思うに昔の人々は鬼とは目に見えないもの、姿のないもの、暗闇の世界、そういうイメージで捉えていたのかなぁという気がします。
 
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は男性の神様、陽の働きを代表する神様
伊邪那美命(いざなみのみこと)は女性の神様、陰の働きを代表する神様
陽は外に開き、陰は内に窄まる
 
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は陰陽相対する働きを現わしている神様なので、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が光ならば、伊邪那美命(いざなみのみこと)は暗闇です。黄泉の国での伊邪那美命(いざなみのみこと)の雷神が巣食った姿は暗闇の中で暗闇として存在するように見える「もの」の姿の醜さ、見苦しさを現わしているのでしょう。

姿が見えず災厄をもたらすものは恐ろしいものと感じます。
そしてそれは暗闇、暗黒、陰(かげ)なるものなのですね。
 
ここまでくると鬼に対して非常にネガティブな印象を持ってしまいますが、古史古伝『九鬼文書』(くかみもんじょ)のように「鬼(かみ)」と読むこともあります。また「かみなり」は昔、雷は神が鳴らすものと信じられていたため「神鳴り」と呼ばれたていたそうです。鬼を神と捉える側面もあったようです。得体の知れないものだからこそ、その中に神がかった力や神聖さを見たのかもしれません。

つまり昔の人々は鬼というものに様々なものを投影していたのでしょう。
投影とは影を投げること、つまり心の見えない部分、見たくない部分を他のものに押し付けてしまうことです。他者は自分の鏡といいますが、これは自分の内面の見えない部分を相手の外面(外に現れたもの)に見ているということです。そして心の見えない部分というのは、大抵がほとんど無意識のうちに見ないようにしている部分のことなのですね。
それを様々な伝承や物語や行事の中の鬼に託していたのではないか・・・

とするならば私たちの心の中にも鬼はいるのかもしれません。
無意識のうちに見ないようにしている部分、それを闇と呼ぶならば、そこに光を当てることによって闇は消えてしまいます。
とても難しいことですが、自分の心の中の都合の悪い部分をあえて見ようとしてみることが鬼に豆をぶつけるということかなぁなどと考えてみたりしました。


5 件のコメント:

Love Nippon さんのコメント...

おっしゃる通り!見たくない闇の部分を見る勇気は必要ですね。なかなかできませんが。どうしても都合のいいもの、安楽なものだけを選んで見てしまいますからね。もっと楽観的になれるといいなって思うことがよくあります。自分のダメなところも、取り敢えず見てみて、「まあいっか」みたいに楽観的でいられたらいいなと。

koe さんのコメント...

Love Nippon様
いつもありがとうございます。
なかなか難しいですよねぇ・・・。
無視してもフォーカスしすぎても見てしまうんですよねぇ。。
楽観的になる、いいですね。
「まあいっか」「あ そっか」ノージャッジで^^

匿名 さんのコメント...

核心的な部分ありますね。
闇は光に当てれば消え去る。
隠すから“罪”=「包み」となるという所ですね。
鬼に豆をぶつける風習は、大切にしたいものです。

不動明王 さんのコメント...

スミマセン。先ほどの匿名です

koe さんのコメント...

不動明王様
こんばんわ。ありがとうございます^^
なるほど。。含蓄がありますね。

闇、影というのは自分で作り出しているのですね。