2011年2月18日金曜日

八田與一をはじめとする台湾にいきる日本精神レポート

日本ネイビークラブと修学院の合同定例会が2月12日(土)に東京大学本郷キャンパス山上会館にて行われました。
講師は修学院の久保田信之氏です。

「八田與一をはじめとする台湾に生きる日本精神」

序 化外の地・台湾をよみがえらせた日本
今でこそアジアの四小竜の一つと言われる台湾ですが、1895年下関条約により日本の統治下にはいるまでは支配を嫌い、共通言語もない12の原住民族が交流もなく小規模集落を形成する、清朝も手に負えなかった未開の地でした。マラリヤやコレラ等の伝染病、勿論道路も港湾もなく、病院もありません。また、アヘンの風習をもった民族もあったようです。
日清戦争で勝ったものの、この台湾をもらうという事は経済上あまりメリットのある条件ではなかった。しかし、台湾を日本の一部とする以上、日本本土と変わらない豊かな土地にしようと日本政府と派遣された技術者は力を尽くしたのです。
一、台湾開発に見る日本精神
第四代台湾総督・児玉源太郎が民政長官に後藤新平を抜擢。後藤は徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を進めます。
「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という生物学の原則に則った手法をとりました。
結果、後藤は台湾を語るときにはずせない人物となりました。
二、八田與一と日本精神
八田與一は1886年生まれ。幼いころには利水の重要度を実感していたようです。東京帝国大学土木科卒業後、台湾総督府に着任し、衛生工事担当を経て利水事業を担当します。
以下工事内容
今でこそ様々な農産物を生産する台湾ですが、統治を始めた当時は一番広く気候としては四耗作も可能な嘉南平原ですら、流れる河川が尐なくしかも急流の為水利としてほとんど機能せず、穀物の栽培には不向きでサトウキビすら育たない不毛の地でした。それを徹底した現地調査と大胆な発想の下1920(大正9年)着工します。
官田渓(中規模河川)だけでは水量が不足だったため、一山越えた本流・曽文渓から引き込むために烏山嶺をくりぬくトンネルを造ることにします。
セミ・ハイドロリックフィル工法で、粘土、砂、礫、栗石、玉石を組み合わせて堤防を造りました。セミ・ハイドロリックフィル工法とは、堤体上流と下流の両式幅末端の部分に土砂を置き、ダム軸上にあるコンクリートコアからポンプを使い、
水を土砂に吹きかける。すると、軽い土や石はコンクリートコアに向かって流れ、重い岩は式幅末端に残る。これを繰り返し、嵩上げする工法の事で、多尐のコンクリートは使うものの、三面コンクリートの護岸工事と違い、自然に近い工法だそうです。
これは、財政面で常にコンクリートの修理するのが難しく、自然材料のほうが材料調達が比較的しやすかったため。
その他に灌漑用の水路、導水路、放水・制水・分水の為の門を造らねばならなかったし、発電用水路の為に沈砂池も造る必要があったのです。
この工事を行うにあたり、資材を運ぶ道路や鉄道、送電線の設置、その円滑な運用制作の立案と徹底をしました。
また、付属事業として、大きな工事であり、困難を伴って時間もかかるので、働く人たちが安心して仕事が出来る為に家族一緒がよいと主張し、家族も住める宿舎、共同浴場、商店や娯楽施設、更に学校もつくり、200人にもなる一つの街を造り、作業員の福祉にも貢献しました。
総工費は、台湾総統府の総予算の半分である5,400万円。巨額な国費が投入されました。
その結果、当時アジア一と言われた烏山頭ダム(満水面積1000ha 貯水量1億5,000万㎥)および16,000kmに及ぶ灌漑用水路が嘉南平野一帯に完成。戦後、日本の統治の痕跡を消して回った国民党の蒋介石ですら消す事の出来ない実績となり、今でも台湾の農業に欠かせない重要なダムとなりました。
三、 妻もまた台湾の土に還った
1942年フィリピンの綿作灌漑調査を命ぜられ輸送船で現地に向かったが、五島列島沖でアメリカ潜水艦の攻撃に遭い殉職、その遺骸は操業中であった山口県の漁船によって偶然網にかかり引き上げられた。
妻、外樹代も1945(昭和20)年9月1日未明、夫が心血を注いだ烏山頭の放水路に身を投げて後を追った。
四、 評価
1931(昭和6)年7月、八田が作業着姿で考え事をしている姿の銅像が、八田とともに働いた工夫・農民の寄付によって作られた。戦争末期、軍の命令で銅の供出が叫ばれた中も農民がこれをそっと隠し、保存されていました。1946年地元の農田水利協会の人々によって夫妻両名の墓が建立された。墓石も大理石ではなく日本人の風習通り、御影石を高雄まで行き探し求めたそうです。
蒋介石時代に日本が残した顕彰碑の接収・破壊が行われた時にも地元の有志でこれを隠し、1981(昭和56)年1月1日再びダムを見下ろす元の位置に設置されま
す。
その後、現在まで命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行われています。この行事は国民党も無視できず、日本に好意的でないとされる馬英九現総統もこれに出席しています。
2011年5月8日には八田與一記念公園もオープンする予定です。
日本の技術の素晴らしいところは学んだ技術をそのまま猿まねして転用しないということだそうです。そのままでなく、その場所、技術に合わせたものを造る。
そして良いものにする、これはどんなに反発している人でも納得させてしまいます。
講師の久保田先生は「日本の精神と言うのは理屈では語りにくい。」とおっしゃいました。文字にするとわかりにくいものですから、外国人ははじめ、日本と聞くと、偏見を持っているそうです。しかし、実際にその方法を見て体験した人には絶対にわかってもらえる。大和の心は身をもって体験して初めてわかるものなのですね。
過去の日本人は素晴らしかった、良い国に生まれたというのはとても大事な事ですが、それを誇りにし、謙虚に見習っていくことこそが、これからの我々には求められているのではないでしょうか。

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