2011年3月11日金曜日

自尊自立のための家庭の医学 第二回 心と体はつながっている

病気になると心細くなります。 
なかなか治らなかったり、それが重い病気ならなおさら、この先どうなるのかという不安や、苦痛に対する恐れなどを感じるものだと思います。
病気、そしてこれからのこと、それらを何となく恐ろしいもの・悪いものという認識のままではそういった不安は大きくなってしまうばかりです。
現代においては生活の忙しさに追われてしまい、目の前にあることをやり遂げることや、逆に気晴らしにあまりにも多くの時間を費やしたりと、自分の心を省みる時間や習慣が減少してしまいました。心と体がつながっているということをつい忘れがちです。

医学は学問です。
しかしその学問が臨床の現場で、病気を治すために役に立つかどうかはまた別の話です。
そういった知識は、私たちにはあまり必要が無いと私は考えています。
私たちに必要なのは病気にならないようにすることや自力で治す知恵です。
どういう治療を受けるのか選択するのかを自分で判断できるようになることです。
先端医学などの研究や、これからも解明されるであろう科学的な根拠などは専門家にお任せするとして、自尊自立の為の家庭の医学では、病気と体、心と体の関係について考えてみたいというのが第一にあります。
これを知っているか知らないか、考えたことがあるかないかでは、病気になった時の心構えが違うと思うからです。

心と体はつながっている。

これを否定する人はほとんどいないでしょう。
しかし、心で感じるあらゆること、感情が様々な病気の根本に隠れていることを実感することは難しいと思います。
現代医学では、基本的には体の病気と心の病気は分けて考えていると思うのです。
ストレスも原因の一つ、というのは現代医学でも常識ですが、心の病気は軽いものは神経症etc、重くなると精神病etc、だけど風邪やがんやアトピーやリウマチは体の病気で心の病気ではない、私たちはそういうイメージを持っていると思います。

私たちは、日常生活の中で、いろんな出来事があって、いろんなことを感じたり思ったりしています。そしてその感じたことは、しっかりと体にも伝わっています。

例えば、ショックを受けると心臓がドキドキしたり、呼吸が早く浅くなったり
ストレスを感じると、胃が痛くなったり下痢をしたり
緊張したら、口の中が乾いたり、手が冷たく汗をかいたり、指先が震えたり
びっくりしたら、冷や汗が出たり、心臓がどっきんどっきんしたり
嬉しすぎたり悲しすぎたりすると胸がいっぱいになって、ご飯が通らなくなったり

こういうことって やろうと思ってやってる事じゃなく自然とそうなっていることですよね。
そうであるならば、自身で知覚できないレベルでも体の中では、いろいろなことが起こっているはずですよね。

食欲は精神状態に大きく左右されます。
悩み事や嫌なことがあって食欲が無い、あるいは食べたけれど胃がもたれるようなとき、ありますね。
「そのせいですっかり食欲が失せた」
「そのことを考えると吐き気がする」
「あいつを見ただけで胸がむかつく」
こういう表現がありますが、これはまさに心と体が同じような反応をしている、類似した状態にあるということです。
胸が悪くなる、気分が悪くなる、というのは、欲しくないという「拒否」を表現しているものともいえます。
 私たちの言語は精神身体学である。精神の動きや状態を表す表現のほとんどは、身体的体験から借りている。意味をつかむ、というのがその例だ。人間の意識の歩みは、かならず身体を通る。ものごとの本質は、いったん肉体性に下げてから意識にとりいれられるのである。
 言葉の二重性を聞き取れるようになれば、病人が体の症状を語るとき、同時に心の問題も表現していることに気づくだろう。視力が落ちてものがよく見えない、風邪をひいて鼻がつまっている、体が凝って前に曲がらない、ものが喉を通らない、ものおぼえが悪くなった、耳が遠い、皮をはがしたいほどかゆくてたまらない、など。こうした表現を聞けば、解釈する必要もない。病気は人を正直にするのである。
(トアヴァルト・デトレフゼン、リューディガー・ダールケ著「病気が教えてくれる、病気の治し方」より引用)

この本はかなり変わっていますが、とても興味深いことがたくさん書かれています。心が認めたくないものを体が体験している、ということなのだそうです。
例えば「皮をはがしたいほどかゆくてたまらない」は、ほんとうは皮をはがしたい、心の奥にはこれまでの枠を破りたいという願いがあるけれど、それを認められない、認める勇気が無い。だから体がその願いを実現し、湿疹を症状に使って望みを表に表しているのだとか。皮膚は外界と接触する部分です。湿疹という「理由」のおかげで「皮をはがしてしまいたい」と表現できた、ということなのだそうです。体に出たアリバイは疑われることはないからだそうです(笑)。仕事が嫌で、忙しくて少し休みたい、でもそれは上司には言えない、ところが風邪をひいて体がそれを実現してくれたために、望み通りの結果になった、と。

なるほど、確かにそういうこともありそうな、なかなか面白い考えだと感心しました。

現代医学のように症状を分類して病名をつけることは学問としての客観性があると思います。
一方でここが痛い、こんな風に痛い、というのは患者さんの主観です。病院へ行って診察を受けて検査をしてどこも異常が無いと言われることも多いですが、患者さんは苦痛を感じている現状があります。
この自覚症状はたとえ病名が付かなくて異常なしとされたとしても以上のような観点から、自分の心の本当の気持ちを知るサインとして大事にしたいなぁと思います。

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