2011年4月6日水曜日

『大義』第一章

今日は軍神と言われた杉本五郎中佐の遺著『大義』のご紹介です。

杉本五郎中佐は支那において、敵の銃弾に倒れながらも、持っていた銃剣を杖に立ち上がり、皇居を遥拝したまま絶命したと言われる人物です。

現代では天皇は国の象徴ということにされ、国民と天皇の間の関係性はあまりにも実感を伴わないものになっています。
学校で教育勅語の唱和をしなくなり、皇祖皇宗と臣民(国民)がどういう関係にあるか、国と個人の関係がどうであるかが意識されていません。

杉本中佐はそのような現代日本人から見れば、その忠孝の精神・尊皇の精神に驚くほどの違いがあります。


左の写真は杉本中佐の家訓です。

家訓


聲高ラカニ唱ヘヨ
我等ハ 陛下ノ 股肱ナリ


昭和十一年十二月一日
中隊長

この短い家訓。
非常にシンプルですね。
シンプルな分力強く響いてきます。





以下の引用は、この『大義』の第一章です。


天皇


天皇は、天照御大神と同一身にましまし、宇宙最高の唯一神、宇宙統治の最高神。國憲・國法・宗教・道徳・學問、藝術乃至凡百の諸道悉(ことごとく)皆 天皇に歸一せしむるための方便門なり。即ち 天皇は絶對にましまし、自己は無なりの自覺に至らしむもの、諸道諸學の最大使命なり。無なるが故に、宇宙悉く 天皇の顯現にして、大にしては上三十三天、下奈落の極度に貫き、横に盡十方に亘る姿となり、小にしては、森羅万象 天皇の御姿ならざるはなく、垣根に喞(すだ)く虫の音も、そよと吹く春の小風も皆 天皇の顯現ならざるなし。
釈迦を信じ、「キリスト」を仰ぎ、孔子を尊ぶの迂愚を止めよ。宇宙一神、最高の眞理具現者、天皇を仰信せよ。萬古 天皇を仰げ。
日本臣民は自己の救濟を目的とせずして、皇威伸張を目的とせざるべからず。勿論自己は 皇威に於て救はる。然れども救はれんがために 皇威伸張を念願するにあらず。天皇の御前には自己は無なり。君民一如の自己尊きにあらず。自己に體現せられたる 天皇の尊きなり。
天皇への修養即ち忠は、飽く間でも 天皇其れ自體のためならざるべからず。悉皆無所得々々々々々、天皇は人生のためのものにあらず、人生、天皇のためのものなり。大楠候の歌へる


身のために君を思ふは二心
  君のためには身をも思はじ


天皇は國家のためのものにあらず、國家は天皇のためにあり。
此の大自覺は、世上的價値を倒換して、永遠悠久の天皇に唯一最高の價値を認むる時、單純極めて明白に現れ来る。魂の救ひ永遠の幸福が究竟之の目的ならば、天皇は手段方便にして最高の存在に非ず。自己の學殖・職業乃至生活程度によりて、尊皇の程度に上下あらば、其は自己中心の人物なり。唯々身心を捨て果て、更に何物をも望むことなく、只管に天皇に歸一せよ。

このブログの資料室:日本の「典」と「憲」に、日本の神の御神勅や天皇の御詔勅を集めてあります。
日本神話の国生みの話の中で、神が創ったのが「オノコロシマ」でした。この言葉は「オノ」(自ら)「コロ」(コロコロと転がる様)「シマ」からできている言葉で、自転する島=地球の意味だと解釈されます。
日本の神様が創ったのが地球であるならば、その神様の地上世界での後継者である天皇が地球の統治者であるという解釈もできるわけです。ここで言う「統治」は「しらす」の意味で、しばしば誤解される「専制」や「独裁」ではありません。
皇祖皇宗から連綿と続く皇統の究極の目標はこの「オノコロシマ」の人々の融和です。八紘爲宇という言葉もこのことに関係しています。これは日本が古来から持っている世界思想です。
杉本中佐は、そのような考えのもと、天皇に帰することが世界を融和に導くとの信念を持っておられたのだと思います。
尊皇の志であった楠公に関する書物と併せてこの遺著を読んでみると、いろいろなものが見えてくると思います。

このような書物は、戦後の占領統治の際に、発行を止められたり焼かれたりしたものが多いです。歴史も精神も分断されてしまいました。連続した日本の歴史を考える上で、このような書物に触れてみるのも大事なことではないでしょうか。

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