2011年1月29日土曜日

体罰って何だろう

読書録-「本能の力」 戸塚宏 

現代の子供たちの深刻な状況は「本能」の弱さに原因があるとし、本能を強くすることでその問題の多くが解決できる、そして本能を強くするには体罰が極めて効果的であることを現場での経験から理論的に書かれたものがこの本です。
著者の戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏氏は、かつてのマスコミが大騒ぎした事件の印象とは違う人物であるということがこの本の内容から理解できると思います。「体罰は悪である」という風潮に逆行するが為にやり玉に挙げられた、というのが実際のところで、戸塚氏を非難する人々に、では体罰とは何か、教育とは何か、という持論や定義があったとは思えません。
実際「体罰って何だろう」「本能って何だろう」、そういう疑問をお持ちの方も多いと思います。それらについて世間のネガティブなイメージが蔓延しています。その印象を一掃し、正しい認識が理解できる著書であると思います。


「体罰」は善である

「相手の進歩を目的とした有形力の行使」

戸塚氏は体罰をこのように定義しています。もちろん、体罰はその使い方と目的を誤ると暴力になります。自分たちの欲望を満たす為のものではないのです。イライラしたからといって子供を殴るのは、体罰ではなく虐待です。
ではなぜ体罰が必要なのでしょうか。

人間の行動原理は「快を求め、不快を避ける」

人間の進歩は、不快を取り去ろうと行動を起こすことによってはじめてもたらされるのだそうです。
通過儀礼には苦痛が伴うということですね。
そしてその不快は「悪」ではないはずですがそれを味あわせないようにしようとするのが戦後の教育なのかと思います。川で遊ぶ、木登りなど高いところへ登る、競争をする、こういうことは大人がさせないようにしていますね。

効果的に生命力を回復させるための質の高い不快とは「死の恐怖」だといいます。
それが溺れるかもしれないという「窒息死の恐怖」を味わう場として海でのトレーニング、ということになったそうです。

また進歩というのは、(驚愕) (恐怖)→萎縮→安定→(怒り)→反発 という感情と行動によって起こるそうです。
驚愕は行動を変更しろという合図で、恐怖によって安定をして現状維持の対処をし、そこで「なにくそ」「やってやろう」という気持ちになってそれを乗り越える。恐怖から自分の能力の限界を知り恥を感じる。その恥から逃れるためには進歩するしかないということで奮起するのだとか。体罰はこの反発を求めて行うものなのだそうです。


・体罰ではなくそれに変わる方法があるのでは?
→口で叱る、言葉を尽くして説明する、では言うことを聞かない
「俺は自由だ」「私の人権はどうなるんですか」「私の尊厳はどうなるんですか」
いろいろな理屈を並べて動こうとしないんだそうです。でも彼らはこういうことを学校で学んで来てるんですよね。

・体罰によって相手が心を閉ざしてしまうのでは?そこから信頼や尊敬は生まれない
→目的は尊敬や信頼を得ることではなく、行動を起こさせること。進歩が生ずれば信頼や尊敬が生まれるが、それは結果としてそうなるだけで、目的はあくまでも進歩のための行動を起こさせたい、だからこちらの言うことに従わせるためである

「事件」以降、スクールでは体罰は行っていないそうです。スクールの目的は変わらずとも手段が変わったことにより卒業のめどが3カ月から1年に伸びてしまったそうです。
これが一体誰の為になるのか、と考えるとけっして生徒の為ではないと感じました。


力は正義である

以下引用です。

 海で溺れている子供を、腕に覚えのある男が飛び込んで助け、子どもは一命を取りとめた。この場合、男は強者の理論で子供を助けたのです。体力があり、技術があったから助けることができた。力があったから、強かったから正義が実行できたのです。
 ところが、弱者はこうはいきません。「誰か泳げる人が助けるべきだ」「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」などと、全て人のせいにします。こんな万年野党の姿を見たことがあるでしょう。弱者の理論は現場では役に立たないのです。溺れている子供一人救うことはできません。このように役に立たないものを正義とは呼びません。
 「力は群れのためにある」という基本を押さえずして、力については語れません。強い者は力に余裕があります。だから、それを自分のために使っても、なお余力を他の人のために使うことができるのです。
 繰り返しますが、不登校児に代表される問題児の共通項は「弱さ」です。日教組が育て、女が育て、男が逃げれば、子供が強くなるはずがありません。問題児は日教組の作品ですが、男たちにも責任があるのです。この問題児を普通児に変えるには「強く」する以外にありません。
 そのためには、「力は正義である」「人間は進歩すると強くなる」ということを、小学校でしっかりと教えるべきです。「弱いものにも価値がある」という相対主義を幼いうちから教え込むのは子供を混乱させるだけです。そんなことは教えなくても力ある者にはわかっています。本能で弱いものを守るからです。
まったくの正論です。

8 件のコメント:

Love Nippon さんのコメント...

寄稿ありがとうございます。

まったくの正論ですに同意です。
子育てにおける男の役割というか、子供強くするための教育というか、そういうものは大事ですね。

koe さんのコメント...

Love Nippon様
ありがとうございます。
戸塚氏はこれを力の否定による弊害と仰っています。

男女の特性は補い合うようにあるので、子供に与えられるものが違うというのもしかながないことであって、優劣の問題ではないのですよね。今の子育てはバランスが悪いということでしょうね。

不動明王 さんのコメント...

地震・雷・火事・親父と言う言葉が、有ったのはいつまでだったでしょうか?
家庭内での親父の立場が、変わってきたのも原因があるかもしれません。
男女同権とか国家破壊の概念に惑わされ、男女の役割も何もあったものではありませんね。
自分のイメージは、親父は怖い存在でした。

koe さんのコメント...

不動明王様
こんにちは。ありがとうございます。
お父様が怖い存在だったというのは正しかったのだと思います。
親が強さを見せるということは子供の安心につながるそうです。小学生に大人と同じだけの理性を求めても無理なので、体罰を含め言うことをきけ的な姿勢を示す・・・でもそれは「俺がお前を守ってやる」というメッセージになるとのことです。そしてこれは父親の役割ですよね。

wakaki さんのコメント...

私も小学校に上がる前に海で溺れた経験がもとで泳げるようになりました。

wakaki さんのコメント...

変なところで投稿してしまいました。ごめんなさい。

私も溺れた経験がもとで泳げるようになりました。

体罰とは違うかもしれませんが、都会で暮らして思う事は、暗闇がない事。手元も見えないような真っ暗闇がない。本当の暗闇って大人でも怖いじゃないですか。
そういう理屈抜きの恐怖を日常的に味わう事も少なくなってる気がします。
これって本能の劣化につながるんじゃないかしらと思ったりしました。

love2nippon@gmail.com さんのコメント...

wakakiさん
怖い思いをするのは、望まないけれど、大事なことだと思います。死にそうな思いをすると、何としてでも生き延びようって考えます。ここまでなら死なないという境界線みたいなのもわかります。わざわざそういう経験を自分からするのは難しいけれど、子供のうちは日常の中にたくさんありました。死に損ないかもしれないです。笑

koe さんのコメント...

wakaki様
こんばんわ。ありがとうございます。
仰る通りだと思います。戸塚氏もそれを「怖さ知らず」と仰ってます。そんな真っ暗闇はなかなか経験することが少ないですよね。その怖さを知らないままでは鍛えようがないというのはあると思います。