2011年1月8日土曜日

交戦権と日米安全保障

戦後ずっとうやむやにされてきた事について書いてみます。

日本国憲法第九条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

たびたび議論の対象になる憲法九条。
国際紛争を解決するために武力を放棄し、武力による威嚇もしない。交戦権を持たないというもの。

過去に何度も蔑ろにされてきた条文です。
朝鮮戦争のときに、占領軍の指示で日本は機雷の掃海作業という形で戦争に参加しています。戦争の作戦の一部を実行したわけですから、明らかな参戦ですね。

復興支援と称してイラクに自衛隊を派遣しました。武装した軍隊を派遣したのですから、イラク側からみれば武力による威嚇行為と見られることも考えられます。例えそのつもりがなくても、そう思われてしまえば、これは威嚇にあたります。イラク特措法という実質的な改憲行為を行いました。

この二つの例は、日本国憲法が憲法として有効ではないことを物語っています。占領軍あるいは米国や連合軍に指示または依頼された程度で運用が変えられる程度の効力のものだということが明白です。
その程度のものを憲法だとして、改憲までしようというのが現在の憲法改憲論で、よく考えればとても不道徳な話です。

交戦権がないという事は、交戦する資格がないことを意味しますよね。国際法では国家の当然の権利として自衛権を認めていますが、交戦しなければ自衛はできないので、自衛権は交戦権に含まれるものです。しかし、この交戦権は国際法の中で、交戦国の権利と書かれており、交戦権がない日本は交戦国としては認められていないわけですから、自衛権はありません。
仮に自衛権があると認められたにしても、交戦権が否定された状態はとても危うい状態です。
例えば国際法では交戦国の正規の軍隊は、敵国に捕まったときには捕虜としての待遇を受けられることになっていますが、日本は交戦国ではないわけですから、自衛隊は捕虜にはしてもらえず虐殺される可能性もあるわけです。

なぜこのような不道徳で危険な状態を放置してきたのでしょうか?疑問に思いませんか?

交戦権が否定された日本が米国と安全保障条約を結んでいます。

よく日米同盟という言葉が聞かれますが、これは政治家による造語です。
戦えない国が同盟を結べるでしょうか。
道理で考えて成り立たない論理ではないでしょうか。
上に書いたように、個別的自衛権すら怪しいのに、集団的自衛権を論ずることができますか。
何か問題を隠そうとして、論点を誤魔化しているように見えます。

このような状態で結ばれる日米安全保障条約が意味するものは、米国の軍事力に従属する、保護条約であるということです。日本は被保護国であるという体制だということです。
やはりこれは同盟とは呼べません。

日米同盟を強固にすると言うことは、被保護国としての立場を強固にするということです。そして保護国の意向に従って、大義のない戦争に巻き込まれたり、保護国の都合で生存の危機に立たされることになります。
これでは自立できませんね。

今のこの状態、外国の圧力で効力が変わるようなとても憲法とは思えないものを憲法だと強弁する不道徳と、自衛権の有無を曖昧にして論点をはぐらかすような欺瞞、を容認するのは法治国家として取るべき態度なんでしょうか。
このような態度で、果たして日本人は世界に向けて胸を張って生きていくことができるのでしょうか。
このような日本や日本人を守るために、先人たちは命をかけて戦ったのでしょうか。

国際情勢は複雑怪奇です。
日本の周辺でも危うい状況があらわになっています。
日本の自立について真剣に考える時ではないかと思います。

憲法とは言えそうにないものを憲法だと言い張ってきたのには理由があります。
また別の機会に、歴史を振り返りながら、その理由や私たちが置かれている異様な状況について書いてみたいと思います。
過去のエントリーにも、いくつか憲法について書いたものがありますので、お時間がありましたらご覧ください。


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