2011年1月31日月曜日

【親学】「善」と「悪」について

本能に忠実な方向が「善」であり、これに背く方向が「悪」

---途中省略---

これまで一般に、多くの人々が、本能とか、本能的という言葉に対して、極めて不道徳で非理論的で悪徳な響きを感じていたのは、合理主義(理性論)に毒されていたためであるといえます。
何が善で何が悪かの判断は、極めて規範的なものであり、その判断基準は世界の各地において様々な様相と態様を呈しているのですが、その原型は、人類の本能に由来するものです。
繰り返し述べますが、本能に忠実な方向が「善」であり、これに背く方向が「悪」なのです。
「忠」とは、本来の意味はその字義からして、「まごころ」を意味し、本能に適合する状態を指します。
自己保存本能か、種族保存本能かの二者択一に迫られたとき、ためらいつつも後者を選ぶことを云います。
また、「孝」とは、その解字からして、老人を背負った子の姿であり、親に対する「忠」の意味です。
それゆえに忠孝一如であり、水戸学では、誠を尽くせば「忠孝一本」になると強調したのです。

―親学 子育ての道しるべ「第8道 「善」と「悪」について」より抜粋―

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2011年1月30日日曜日

展開料理のすすめ

食事は毎日3回。それをきちんと栄養バランスを考えて食べる。
結構大変なんですよね。あれがいいこれがいい、こういうものはあまり良くない、でも今日はあれが食べたい・・・
正しい食生活も欲望との戦いと思うと辛くなってしまいます。本当はそれだけではないのですが。

そしてそれ以上に大変なのが3度3度の食卓を整えること。
作る事なんですよね。

料理本、料理番組、ネット検索と頭をひねりながらどうにかこうにか今日の献立が決まった(疲
という経験をしている方は少なくないと思います。
献立が決まったらば、さあ材料を買いに行きましょう、ということになって
分量は4人分、うちは3人だからじゃがいも400gのところを300gにしておこう・・・
そんな感じで1回分の食事を作る。

その繰り返し。
それを辰巳芳子さんが「家庭の台所仕事は、積んだりくずしたりの繰り返しで、どれほど愛に
つられても、自己を見失うような不安ともどかしさに、かられるものであります。」と仰っていました。(冬野菜 大根 と食事を作ることの大切さ 参照)
きちんと作ろうと思えば思うほど、果てしないような気の遠くなるような思いに駆られる
きっとそういうこともあると思います。

相克を抱え続けていると人間の尊厳が傷つく
これを否定しても苦しいです。

現代人は忙しいです。いつも時間に追われています。
食事の用意も同じです。
しかしその慌しさの中で手早く段取り良く片付けてしまいたい、と思うとき
子供たちとゆったりした時間を過ごしたい、家族のだんらんの時間を持ちたい、
仕事や家事だけで1日を終わらせたくない、自分の時間が欲しい、好きな人たちと楽しい時間を過ごしたい
そういう気持ちが根底にあると思うのです。

だから展開料理。
1回分を毎度毎度作る、作りたては美味しいのですが
次もまた1から作らなければ食べるものがない。
それは「その日暮らし」ともいえるのではないかという気がします。

展開料理といってもそれほど難しいことではなく
余分に作っておいて次の日も、またその次の日も使いまわす、という方法です。
例えば野菜を余分にゆでたり蒸したりしておいて
それを汁物の具、オムレツやコロッケの具、サラダ、というふうに使いまわす。
カレーなら皆さんよくやってらっしゃると思います。
カレーうどん、ドリア、グラタン、コロッケ、カレーパンに姿を変えて。
この発想を下ごしらえの段階から持つということです。

ちょっぴり能率重視、時間重視、の方法だとは思いますが
その中で心を込めることは出来るはずです。
たまーーに凄く栄養バランスのとれた食事を一生懸命こしらえることよりも
毎日安くて栄養バランスが良くて、その時の家族の健康状態にあった、食事を整えること方が大切なんですよね。
それが生活ですよね。

辰巳芳子さんは暮らしと生活の違いをこう述べています。
「暮らし」と「生活」は違います。
「暮らし」は一日一日の実態であり、個人に属することだと思います。
「生活」はその実態の集積であり、そこからひとつの概括が生まれ、より普遍化されたもの。
社会性を帯びたものだと思います。人間がみんなでともに考え合い、助け合って生きやすくするための要素が「生活」です。


確かにそうなのかもしれません。
実践とその積み重ねが大切。これが人間の精神を磨いていくものなのかなぁと感じます。
そのためにも、無理なく楽しく続けられることも大切なのですよね。

2011年1月29日土曜日

外国人に国への忠誠を求めるべきか

外国人参政権や国籍法の問題があって、外国人が日本に来て国籍を取ることに対する危機感を募らせている人が増えました。異質なものを嫌うという感覚でしょうか?

中には日本に来て悪事を働く外国人、日本の生活様式とは違う迷惑な行いをする外国人がいるのは確かです。だからと言って帰化しようとする外国人に「日本に対する忠誠心を誓わせろ」と言うのは正しいでしょうか?あるいは意味があるでしょうか?
そもそも「誓う」というのがいかにも日本的じゃないと思うのは私だけでしょうか?

どうやって「忠誠心がある」ことを確認するんでしょうか?
「忠誠心があると言う(誓う)」「忠誠心があると書く」で忠誠心があるということが確認できるんでしょうか?
あるいは徴兵でもしますか?
だったら日本人も徴兵しないと都合が悪くなります。
効果の測れないものをわざわざ制度化するのは馬鹿げています。

アメリカ合衆国は、先住民族の土地、財産、命を奪うという侵略をした後に移民によって作られました。先住民が持っていた祖先崇拝や自然信仰を破壊して移民が作った国です。
そんな国では人々に何を頼りに国民たることを意識させるかが重要になってきます。
そのための道具として「国家への忠誠を誓う」「徴兵する」「国旗国歌をしつこいくらい明示する」という手段を使う。あるいは「理念」をうたって「思い込ませる」というやり方が必要になります。
そういう後付けの方法で国民をまとめるんです。
そうでもしないと「自分はアメリカ人だ」という自覚ができない、国がまとまらない、ということになってしまう。

日本はどうかといえば、悠久の歴史と伝統があり、皇室が存在し、祭祀の長とも言うべき天皇が祖先祭祀や自然祭祀を滞りなく続けておられます。日本語には祭祀的な意味のある言葉も多く、日本人はそういう言葉や日頃の行いを通じて祖先祭祀や自然祭祀を行っています。例えば「箸」(はし)は「橋」(はし)と同じで、人と神の橋渡しの意味があるなど、日常の中に祭祀的な要素が含まれています。
ナイフは切る武器、フォークは差す武器。武器で食べ物を食べるのに対し、神様と人とが一緒に食べるのに使われるのが箸です。
外国人にはこういうことを説明できる日本人でありたいものです。

日本には国民をまとめるものが既に存在し、後付けの理念などではありません。
意味があるから宮中祭祀は続けられています。
なので理念で国民を統合する必要はないし、忠誠心を誓わせることで国民の自覚を確認する必要もない。外国人を受け入れる場合には、この日本の歴史、伝統、思想を理解してもらうようにすること、そのためには自らが日本人としての自覚を持ち、祖先祭祀を実践し、それを教えられる日本人になることです。日本人らしい日本人で溢れている状態にすることです。


外国人による犯罪が問題なのであれば、犯罪への処罰を法に基づいて徹底して行うということで十分なはずです。
伝統ある日本人が侵略国家の真似をする必要はありません。
日本人が日本人としてしっかりすることが大事です。

補足

神という言葉はキリスト教などのGodを訳した言葉ですが、本来的には日本の神は「上」の意味ですので、Godを神と訳したのは誤りだったと思います。祖先から受け継いできた命がありがたいと思う、その祖先の先に八百万の神を想起する、一人一人の祖先が天皇の先祖、皇祖皇宗とつながっていることを感じ取る。先祖の「上」にあるものが神です。宗教の神と日本人にとっての神は違います。

体罰って何だろう

読書録-「本能の力」 戸塚宏 

現代の子供たちの深刻な状況は「本能」の弱さに原因があるとし、本能を強くすることでその問題の多くが解決できる、そして本能を強くするには体罰が極めて効果的であることを現場での経験から理論的に書かれたものがこの本です。
著者の戸塚ヨットスクール校長の戸塚宏氏は、かつてのマスコミが大騒ぎした事件の印象とは違う人物であるということがこの本の内容から理解できると思います。「体罰は悪である」という風潮に逆行するが為にやり玉に挙げられた、というのが実際のところで、戸塚氏を非難する人々に、では体罰とは何か、教育とは何か、という持論や定義があったとは思えません。
実際「体罰って何だろう」「本能って何だろう」、そういう疑問をお持ちの方も多いと思います。それらについて世間のネガティブなイメージが蔓延しています。その印象を一掃し、正しい認識が理解できる著書であると思います。


「体罰」は善である

「相手の進歩を目的とした有形力の行使」

戸塚氏は体罰をこのように定義しています。もちろん、体罰はその使い方と目的を誤ると暴力になります。自分たちの欲望を満たす為のものではないのです。イライラしたからといって子供を殴るのは、体罰ではなく虐待です。
ではなぜ体罰が必要なのでしょうか。

人間の行動原理は「快を求め、不快を避ける」

人間の進歩は、不快を取り去ろうと行動を起こすことによってはじめてもたらされるのだそうです。
通過儀礼には苦痛が伴うということですね。
そしてその不快は「悪」ではないはずですがそれを味あわせないようにしようとするのが戦後の教育なのかと思います。川で遊ぶ、木登りなど高いところへ登る、競争をする、こういうことは大人がさせないようにしていますね。

効果的に生命力を回復させるための質の高い不快とは「死の恐怖」だといいます。
それが溺れるかもしれないという「窒息死の恐怖」を味わう場として海でのトレーニング、ということになったそうです。

また進歩というのは、(驚愕) (恐怖)→萎縮→安定→(怒り)→反発 という感情と行動によって起こるそうです。
驚愕は行動を変更しろという合図で、恐怖によって安定をして現状維持の対処をし、そこで「なにくそ」「やってやろう」という気持ちになってそれを乗り越える。恐怖から自分の能力の限界を知り恥を感じる。その恥から逃れるためには進歩するしかないということで奮起するのだとか。体罰はこの反発を求めて行うものなのだそうです。


・体罰ではなくそれに変わる方法があるのでは?
→口で叱る、言葉を尽くして説明する、では言うことを聞かない
「俺は自由だ」「私の人権はどうなるんですか」「私の尊厳はどうなるんですか」
いろいろな理屈を並べて動こうとしないんだそうです。でも彼らはこういうことを学校で学んで来てるんですよね。

・体罰によって相手が心を閉ざしてしまうのでは?そこから信頼や尊敬は生まれない
→目的は尊敬や信頼を得ることではなく、行動を起こさせること。進歩が生ずれば信頼や尊敬が生まれるが、それは結果としてそうなるだけで、目的はあくまでも進歩のための行動を起こさせたい、だからこちらの言うことに従わせるためである

「事件」以降、スクールでは体罰は行っていないそうです。スクールの目的は変わらずとも手段が変わったことにより卒業のめどが3カ月から1年に伸びてしまったそうです。
これが一体誰の為になるのか、と考えるとけっして生徒の為ではないと感じました。


力は正義である

以下引用です。

 海で溺れている子供を、腕に覚えのある男が飛び込んで助け、子どもは一命を取りとめた。この場合、男は強者の理論で子供を助けたのです。体力があり、技術があったから助けることができた。力があったから、強かったから正義が実行できたのです。
 ところが、弱者はこうはいきません。「誰か泳げる人が助けるべきだ」「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」などと、全て人のせいにします。こんな万年野党の姿を見たことがあるでしょう。弱者の理論は現場では役に立たないのです。溺れている子供一人救うことはできません。このように役に立たないものを正義とは呼びません。
 「力は群れのためにある」という基本を押さえずして、力については語れません。強い者は力に余裕があります。だから、それを自分のために使っても、なお余力を他の人のために使うことができるのです。
 繰り返しますが、不登校児に代表される問題児の共通項は「弱さ」です。日教組が育て、女が育て、男が逃げれば、子供が強くなるはずがありません。問題児は日教組の作品ですが、男たちにも責任があるのです。この問題児を普通児に変えるには「強く」する以外にありません。
 そのためには、「力は正義である」「人間は進歩すると強くなる」ということを、小学校でしっかりと教えるべきです。「弱いものにも価値がある」という相対主義を幼いうちから教え込むのは子供を混乱させるだけです。そんなことは教えなくても力ある者にはわかっています。本能で弱いものを守るからです。
まったくの正論です。

2011年1月28日金曜日

漫画読書録ーテルマエロマエ

箱根に行ってきました。

というわけで今日はこれ。
昨年かなり有名になりました。


テルマエロマエ


時は五賢帝ハドリアヌス帝の治世。
浴場設計技師のルシウスが何故か風呂を媒介にして現代日本にタイムスリップし、浴場設計のヒントを得てくるという物語。

お風呂の時間.comによれば、お風呂の効果は次のよう。

※皮膚を清潔にし、皮脂の分泌を促進する。
※血液の循環が活発になる。
※心身の疲労や、緊張が取り除かれる。
※心理的リラクゼーションが得られる。
※冷え性が改善出来る。
※ 不眠症にも有効。
などなど。

熱いお湯は、血行促進、交感神経系よく、ぬるめのお湯は、緊張をほぐすのに(副交感神経系)良いので、バッと目覚めたい朝には熱いお湯、ゆっくり眠りたい夜にはぬるいお湯と使い分けると良いそうです。

ただし、心臓が悪い方やお年寄りに熱いお湯は厳禁。入浴の前後30分は飲酒も厳禁。入浴後は水分補給も忘れずに。

さあ楽しく入浴しましょう!!

2011年1月27日木曜日

教育勅語(ふりがな付き)のダウンロード

ご要望が多かったので教育勅語(ふりがな付き)のPDFファイルを用意しました。
こちらからダウンロードできます。

http://db.tt/kllnZQg

是非、ダウンロードしてください!

2011年1月26日水曜日

「安全が保証されないから救援機を飛ばさなかった国」と「安全が保証されないから救援機を飛ばした国」

NPOネイビークラブ様より寄稿して頂きました。


最近読んだ 「トルコ 世界一の親日國」(森永堯著、明成社刊)に、日本は「安全が保証されないから救援機を飛ばさなかった国」であり、一方トルコは「安全が保証されなかったから救援機を飛ばした国」であると記述されています。
34年間航空自衛隊に奉職し、我が国防衛の現場において「国を守る」とはどう言う事か ? を追求し続けて来た身としては考えさせられる事ですので、この事を以下に説明させて戴きたく思います。この本はイラン・イラク戦争の時の事を綴った本です。

1 イラン・イラク戦争での在留邦人の脱出
既に御存知の方も多いとは思いますが、事の次第の概略を簡単に紹介します。
時は1985(昭和60)317日、イラン・イラク戦争の真っ最中にイラク大統領のサダム・フセインは「48時間後にイラン上空を飛ぶ航空機に対して無差別攻撃爆撃を加える」と宣言しました。当時イランには200人を越す在留邦人が居ました。諸外国の現地在留民はそれぞれ自国の航空会社の便により急遽脱出をしましたが、当時日本の航空会社はイランに乗り入れていませんでしたので、在留邦人達はドイツやフランスの航空会社の搭乗券を手に入れようとしましたが、外国の航空会社はそれぞれの自国民の搭乗を優先するとの当然の理由により航空便搭乗券は入手できませんでした。 当然、我が国政府はこれら人達を救出するべきでしたが、我が国の法律では「安全が保証されない地域には航空機を運行できない」との事で救援機は飛ばしませんでした。 慌てた在留邦人達は急遽陸路の脱出を図る等の準備を始めたりで不安が一挙に募りました。この時に伊藤忠商事の現地代表であった森永堯氏は本社からの指示により当時のトルコのオザル首相に緊急の要望をしてイランの在留邦人の救出を依頼しました。 森永氏は以前からオザル氏と個人的親交が深く、また、オザル氏も日本を深く信頼している人でした。森永氏の依頼を受けたオザル首相は暫く熟考の後に「トルコは日本に恩義がある」との事で、この緊急状況を理解して森永氏の依頼を快諾し、トルコ航空の救援機を飛ばして呉れたために在留邦人がイラクによる無差別攻撃開始期限ギリギリの時間で無事にイランから脱出できました。

2 エルトゥールル号乗組員の救出
オザル大統領がイラン在留邦人のためにトルコ航空の救援機を飛ばして呉れたのは、オザル首相のみではなく、殆どのトルコ国民が日本に対して深い感謝の気持ちを持っているからです。 これには次のような事実があるからです。
1890(明治32)916日に当時のオスマン・トルコの軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県の串本沖で台風により沈没して500名以上が遭難してしまいしまいましたが、その時に串本の大島町の漁民達が深夜の荒れる海の中から懸命に69名の乗組員を救出し、決して豊かではない彼等が自分達の食べる物を減らしてこの人達に暖かい食べ物を与えて介抱すると共に、遭難した乗組員の遺体を丁重に埋葬しました。 そして、我が国は翌年の12月にこの69名の人達を軍艦「比叡」と「金剛」によりトルコ本国に送り届けました。 この事実はトルコの学校の教科書にも記載されており、トルコ国民は現在でも日本に深い恩義を感じていて大の親日家なのです。

3 国を守ると言う事
ここで2つの事を考えさせられます。1つは「国を守る」とはどう言う事か ? です。トルコは自国の航空機の安全より友好国の国民を救出する事を優先して呉れました。大変ありがたい事ですが、我が国の政府は緊急事態にある自国民を守る事よりも航空機の運行の安全を優先しました。 このような事で国民は国を信じる事ができるでしょうか ? 誠に残念な事です。 先ず自国民の生命を守るのが国家の基本的な責務です。 北朝鮮に拉致された我が同胞を未だに救出できず、拉致被害者の御家族の家族救出を訴える悲痛な叫びを聞く度に胸が張り裂ける思いです。 そして、最近の尖閣諸島の事態に刺激されて我が国民も漸く国土を守る努力の大切さを認識し始めたようですが、「国を守る」とは、先ず国民と領土を守る事であるとの基本的な認識を持つ必要があります。 同時に、特に現在の我が国において正しく認識すべき事は、自分の国は自分で守るのが基本である事です。 一部の我が国民は自国の防衛を同盟国たるアメリカに任せたように考えているようですが、とんでもない考え違いです。 自国の防衛は自国が全力を尽くして努力するものであり、同盟国はこの努力を見て我が国を信頼して必要に応じて支援又は協力して呉れるのです。 もう1つ考えさせられる事は、我が国の先人達の素晴らしい心と行動です。 自身の危険を冒しても他国の人を助ける努力をして外国からの信頼を得ている事です。 これは我々の素晴らしい財産です。 他人を思いやる心は日本の文化の根本ですので、大切に守らなればなりません。要するに国を守ると言う事は、自国民の安全を守り、自国領土の保全を守り、そして、我が国本来の文化を守ると言う事に尽きます。
アフリカの人達を黄熱病から救うために尽力し、最後は自身が黄熱病に罹って落命した野口英世、台湾のためにダム建設をしたり、農業用灌漑施設等を整備して台湾の人達のために献身的な努力をして今でも現地の人達から深く尊敬されている八田与一、「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」(田中秀雄著 草思社)として、我が国による朝鮮統治時代に朝鮮の農業振興に全力を尽くした重松髜修(まさなお)等の自国のみならず諸外国の人達のために献身的に努力をされた我々の先人が沢山居られます。
要するに国を守るとはどう言う事か、そのためには何をするべきかを特に次の我が国を背負う若い世代の人達にしっかりと伝える事が大切である信じる次第です。


日本ネイビークラブ 理事長 大橋武郎(元空将補)



2011年1月25日火曜日

神人共生【テキスト】

ブログ読者の方から「読みたい」というご要望をいただきましたので、朗読の原稿を入手いたしました。


第一回:神人共生

くにからを ただひたすらに まもりぬく いわいまつりし ひとすじのみち

 祭祀とは、くにからを守るための実践的な行動です。観念や理屈の世界ではありません。実践の世界です。お父さん、お母さん、お祖父さん、お祖母さん、そして、さらに遠い遠い御先祖様に感謝し、さらにさらに上にさかのぼれば、御皇室の御先祖様、つまり、皇祖皇宗、八百万の神々へと連なつて行くという確信を抱くことになり、そのことを清く素直に受け止められる者であれば誰しも感激するのです。私たちの御宗家がご皇室であることに感激するのです。
 「すめらみこと」とは、「統一された命」を意味します。私たちと御先祖様のすべて命と霊を束ねれば、その源は天皇宗家となるからです。そして、私たちが生かされてゐるのは、御先祖様から命と魂を途切れることなく受け継いできたことの奇跡によるものです。かたじけなや、申し訳なや、といふ感動と感激、それに恥じらいを感じて、おそれおほき道を歩み続け、そして、いとしい子孫を生み育て、家族はとこしへに生き続けるのです。それを実感して実践するのが祭祀の道です。

 日本書紀によると、推古天皇十二年四月(皇紀1264年)に推古天皇の摂政であらせられた聖徳太子が憲法十七条(いつくしきのりとほあまりななをち)を定められ、その第二に、「二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは佛・法・僧なり。」とあり、仏教を受け入れました。このことから、我が国の「くにから」が変わったとする考えがありますが、決してそうではありません。なぜならば、その三年後に、推古天皇ご自身が御詔勅を出されましたが、それによりますと、「祭祀神祇、豈有怠乎」(あまつかみ くにつかみを 祝いまつること、あに おこたることあらんや)とあります。つまり、「仏教」は徳目として「敬ふもの」(観念論)であり、「祭祀」は「怠つてはならないもの」(実践論)ということです。それゆゑ、我が国は、揺るぎのない「祭祀の国」であり、それが國體(くにから)なのです。

 御先祖様は、子孫から見れば「上(うえ、かみ)」の存在であり、それが「神」の意味です。決して、絶対神、唯一神や創造主を意味する「God」ではありません。この「God」を「神」と訳したのは、精神文化面における我が国最大の誤訳と言えます。ともあれ、宗教で説く神仏は理性の働きによる想像の産物であり、人々がそれぞれが信じる神仏はバラバラで一致しません。一致しないことから、それぞれの神仏の優劣に決着を付けるために戦争をするのです。宗教は、人を救うための教えであると言いながら、人殺しをするのです。なんといふ矛盾でしょう。その上に、「この教へを信じなければ地獄に落ちるぞ!」と言つて、人を脅して信心帰依させるのです。恐怖から出発した信心です。こんな信心は本物ではありません。信心ではなく、恐怖心の裏返しにすぎません。また、人の恐怖心や不安を煽つて「宗教的営業の成果」(入信成功)を得るというのは、最も卑劣な行為であり、そのやうな教祖たちは、自らの描いた「地獄」の世界に指定席を持つているはずです。

 そして、このやうな宗教に共通するのは、自らが信心の中心に描いた絶対神や本尊と信者との間には何も存在しないとすることにあります。つまり、御先祖様は全く存在しないものとするのです。御先祖様の彼方に絶対神や本尊があるとはしないのです。その結果、祭祀は全否定されるのです。祖先供養や祖先崇拝を否定します。仮に、祖先供養を認めても、絶対神や本尊への忠誠と信心に反しない限度で認めるだけです。それも法事などと称する宗教的営業として利用するのです。

 これに対し、祭祀の場合は、人を殺しません。敵であつても、その敵の御先祖と我が御先祖とが重なりうることを想起すれば、争いは解消する方向に向かひます。過去に、「宗教戦争」は数限りなくありましたが、「祭祀戦争」はこれまで一度もありません。いわば、祭祀は、御先祖様を御本尊とする宗教のように捉えることもできますが、これが宗教と決定的に異なるのは、それぞれの父母といふ御先祖への「登り口」は違つても、そこから目指す頂上の方向は万人共通の融合一体のものであるという点です。それが「世界のすめらみこと」です。
 祭祀からみると、宗教における神仏というのは、御先祖様の総体から生まれる働きを可視化、具象化したものと捉えることができます。仏が本質(本地)であり、その現象が神々の働き(垂迹)であるとする本地垂迹説という見解がありますが、これと同じやうな方法で捉えるとすると、御先祖様の総体が本質(本地)で、その智恵の働きを個別的に可視化し具象化したものが神仏と捉えればよいことになります。これは、反本地垂迹説といふことになります。

 このやうな祭祀と宗教との関係などについては、國體護持総論(普及版シリーズ)第一巻「くにからのみち」を参考にしてください。そして、この連載においても、回を重ねながら折に触れてさらに詳しくお話する予定ですが、この連載の目的は、あくまで祭祀実践の具体的な事例や手引きなどについて語るものです。

 そこで、今回はその第一回として、「神人共生」について述べます。

 私たちは、祖霊と共に生活しています。御先祖様の「から」(柄がら、體からだ)はなくなつても、「たま」(霊れい)は私たちと共に暮らしてゐます。御先祖様は、たとえ地獄に落ちようとも子孫の家族を守ります。それが見返りを求めない親心です。自分だけ天国や極楽に行つて満足し、子孫などはどうなつてもよいと考へている御先祖もあるでしょうが、真に霊格の高い祖霊は、子孫やその家系を守り続けるのです。
 人には、自分自身を守るという本能があります。しかしもその本能よりもさらに高次の本能として、自分が犠牲になつてでも、命を捨ててでも家族を守ろうとする本能があります。さらに、もつと高次の本能には、自分の命を捨ててでも祖国を守ろうとする本能があります。自分が連綿と続く家族に育まれた存在であることを自覚すれば、家族を守ることは喜びになります。そして、その家族を守つていただいた御先祖様と共に暮らしてゐるといふ感激があれば、朝起きれば、「お早うございます。」と声を出して御先祖様にご挨拶できるはずです。心に思つてゐるだけではダメです。必ず声を出してください。歌を楽しむとき、楽譜を見るだけで声を出さないのでは楽しめないでしょう。それと同じです。声に出して、御先祖様と自分とが共に楽しさと喜びを分かち合えばよいのです。これが「神人共楽」です。

 朝の御挨拶だけではありません。出かけるときは「行つて参ります。」、帰つたら「ただいま帰りました。」、寝るときは「おやすみなさい。」と常に声に出して御挨拶することです。
 単身生活の人、家族などとの共同生活の人など、様々な生活の形がありますが、それぞれの生活の場で、清く聖なる空間を確保してみてください。そこを祖霊の座として、そこに向かつて御挨拶するのです。
 また、食事をするときは、祖霊と共にいただくことを感じながら、柏手を一回して「いただきます。」と声を出してみてください。これは、「神人共食」です。すべては言霊、音霊の世界であり、喜びと感動の表現と共鳴を意味します。

「神人共楽」と「神人共食」。併せて「神人共生」なのです。

平成21年12月22日(冬至)に 南出喜久治著す

ドイツ商船『R・J・ロベルトソン号』遭難事件

1873年(明治6年)7月、この頃の沖縄は明治政府によって琉球王朝が強制廃止され、律令国として琉球藩が設置されたばかりでした。(1871年に廃藩置県、1872年琉球藩設置)
アジアでは清が欧米烈強に翻弄されていた頃でした。
ドイツのハンブルグからやって来た商船「R.J.ロベルトソン号」は、貿易品である茶を福建省から積み込んで、オーストラリアのアデレードに向けて出港しました。

ところがロベルトソン号は台風による激しい暴風に遭い、いつ沈没してもおかしくない非常に危険な状態となり、宮古島の南岸へと流れ、座礁してしまいます。

最初にロベルトソン号の座礁を目撃したイギリスの軍艦カーリュー号が、ボートを出して救出を企てましたが高波のため断念しました。
続いて、島の住人が座礁した外国船を発見し、島から小舟を漕いで救出を試みましたが、暴風明けで夜間の高波のために断念しました。この様子を見ていたロベルトソン号の乗組員は激しく落胆しましたが、島民は海岸でかがり火を焚き、難破船の乗組員を励まし続けまた。
翌朝、いまだ打ち寄せる高波の中、小舟2艘を出し船に残っていた救命ボート1艘とともに、生存者8名(ドイツ人6名、うち女性1名。中国人船員2名)を無事に救出しました。その後、ロベルトソン号は激しい波で破壊されました。
島民が海岸に打ち寄せられた積荷を親身になって拾い集めましたが、濡れて商品にならないものは要らないとなじられる場面もあったそうです。

救出はしたものの相手は外国人、言葉が通じずコミュニケーションがうまく出来ない状況であったそうですが、島の人々は遭難者たちを手厚く保護し、役人は役場を宿泊所として提供して、自らはその周りに仮小屋を立てて過ごしました。当時の島民の主食はキビだったそうですが、遭難者には米や鶏肉を与えたそうです。この頃の宮古は人頭税がまかり通っていたそうですので、8名の人間に食事を提供するのは、大変なことであったと思われます。

しばらく後、ロベルトソン号の乗組員たちは、宮国から野原(ぬばる)へと移送され、新たな宿舎に移ります。体力も回復し、ロベルトソン号から持ち出した銃で、余暇を兼ねて島内の森で鳩を狩ったりするなど、自由な生活をしたそうです。
しかしいつまでも彼らを島にとどませる訳にもいかないと、島の役人が中国へ送る船を出すよう首里まで使いを出しましたが、いっこうにその船が出なかったため、島の役人は王朝の許可なく独断で、たまたま宮古島へ来ていた官船を出すことにしたのでした。

こうして34日ぶりに宮古島を出たロベルトソン号の乗組員たちは、中国経由でドイツへ帰る事になりました。

ロベルトソン号船長のエドゥアルド・ルドヴィヒ・ヘルンツハイムは、この出来事を「ドイツ商船 R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」として新聞に発表したところ大反響を呼び、それを読んだドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は、宮古島の人々の博愛精神に感動し、1876年に軍艦チクローブ号を日本へ派遣しました。
 そして皇帝の誕生日でもある3月22日に、宮古島の中心港、漲水港(平良港)を見渡せる斜面に、博愛精神を賞賛する記念碑が建立されました。

またその後には、日独間が同盟関係を結んでいた1936年(昭和11年)、記念碑の建立から60年目にあたり、外務省や日独親善団体、宮古教育部会の協力のもと、「獨逸商船遭難の地」の碑が建てられました。
翌1937年(昭和12年)には、文部省が全国から募集した「知らせたい美しい話」で、「博愛」と題したこの史実が1等に選ばれ、小学校の修身教科書に載り、全国に広く知られることになりました。
1996年(平成8年)には、遭難地近くに「うえのドイツ文化村」というテーマパークが作られ、2000年(平成12年)の主要国首脳会議が沖縄で開催された折に、ドイツのゲアハルト・シュレーダー首相が親善訪問しました。


教育勅語とともにこういう先人の美談を多くの日本人に知ってもらいたいですね。

神人共生【動画・朗読】

本ブログにイベント情報やブログ記事を提供いただいている國體護持塾様が新しいブログをオープンしました。

私たちは神様とともに生きています。だから、ちゃんとご挨拶も神様にもしましょう♪



日本の国柄についての本質的なことが説明されています。
目を閉じて聴くと穏やかな気持ちになれます。
Podcastも用意されていますので、iPhoneやiPodに入れて通勤の電車の中で聴くといいかもしれません。


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2011年1月24日月曜日

蒔いた種を育てよう

蒔いた種を育てよう


(前回はコチラ↓「喜びの種を蒔こう」)
http://jiritsusaisei.blogspot.com/2010/12/blog-post_20.html

商売はご縁。ご縁は育てなければ円になりません。
丸い円は大切に育てると良いご縁となり、大きな大きな縁となりまして、たくさん円が入るようになります。


---途中略---

 営業という畑に喜びの種を蒔いた後は、感謝をするのです。
既に得たりの心境で「○○様ありがとうございます」と感謝の言葉を心に持つのです。実り多くを得ようとするのならば、これが大切です。
 たとえばあるお店をお持ちの方でしたら、多くのお客様があふれる店内を想像することです。出迎える準備をすることです。
店内入口を毎朝掃除し、花を置き明るい印象つくりを行い、言葉も明るく朗らかな笑みを持って出迎えるようにするのが、育てるということではないでしょうか?


月刊「みんなのうけひのもり」12月号「たけさんの営業心得帳 其の七」より
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日本一元気が出る!たのしい!月刊誌♪
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2011年1月22日土曜日

在日朝鮮人帰還事業

こちらの論文もまた、NPOネイビークラブ様より提供していただきました。


1 在日朝鮮人帰還事業とは
  昭和34(1959)年(今上陛下ご成婚)から昭和59(1984)年にかけて、在日朝鮮人とその家族を北朝鮮へ集団的に移住させる「在日朝鮮人帰還事業」が行われた。昭和341214日、最初の帰国船が新潟港から出航、数度の中断をはさみながら25年間続いた。60の在日朝鮮人のうち93,340が渡海し、そのうち少なくとも6,839が日本人妻やその子供といった日本国籍保有者だった。帰国した朝鮮人の95%以上は南朝鮮(韓国)地域出身だったので、韓国ではこれを北送事業と呼んで強硬に反対した。

昭和34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
59
帰国者
2,942
49,036
22,801
3,497
2,567
1,822
2,255
1,860
1,831
0
0
累 計
2,942
51,978
74,779
78,276
80,843
82,665
84,920
86,780
88,611
88,611
93,340












2 経緯と推移
朝鮮戦争で国土が荒廃、産業施設の多くが破壊され人口も激減した北朝鮮は、昭和302月、日朝友好関係と国交正常化を呼びかけ、赤十字チャネルで北朝鮮残留日本人の帰国を実現させ、その見返りとして在日朝鮮人の帰国について最大限の努力を払うことを日本赤十字社に約束させた。
昭和307月、朝鮮総連主催「朝鮮人帰国希望者東京大会」が開催され、それ以降熱烈な帰国希望者による座り込みなどの帰国運動が活発化した。昭和339月、金日成は建国10周年記念慶祝大会で「朝鮮人民は在日同胞の念願を熱烈に歓迎し、すぐに北朝鮮へ帰国し新しい生活を営めるよう保証する」旨の演説を行った。この式典に参加した日本共産党党員で歴史学者の寺尾五郎は、在日朝鮮人をこの世の地獄へと誘う上に大きな影響を及ぼす『38度線の北』なる悪書を著し、ベストセラーとなった。
昭和3310月、北朝鮮外務省は、「帰国旅費と船舶を負担、帰国後の安定した生活と職業を保証する」と表明し、日本側でも鳩山一郎元首相、浅沼稲次郎社会党書記長、宮本顕治共産党書記長らをメンバーとする挙国一致の「在日朝鮮人帰国協力会」が結成された。昭和342月、政府は北朝鮮帰還問題について「基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」ことを閣議決定し、「帰還希望者の意思確認と帰還意思が真意であると認められた者」の帰還実現に必要な仲介を赤十字国際委員会に依頼した。
この日本側の対応に対して、韓国政府は「北送阻止」を決定し、対日通商の断交を通告した。
昭和348月、「在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する協定」が日朝赤十字社の間で締結され、乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保証することなどを取り決めたカルカッタ協定が締結された。
同年12月、第1次帰国団を運ぶ専用列車が品川駅を出発、975名を乗せた第1次帰国船2隻が新潟港を出航、北朝鮮清津港に入港した。
帰国申請者は141,892件、申請取消が23,383件、意思変更が17492件という記録が残る。最盛期には毎週1,000人規模で帰還、帰国船回数は187回に及んだ。
 帰国船は外見こそ立派にみせていたが、内部はまったくの老朽船で悪臭と汚濁に満ちていた。船内で出された食事はすえた異臭を放ち肉は噛み切れないほど硬く、日本食に親しんだ在日朝鮮人にはとても箸が出せるものではなかった。「とんでもない間違いを犯したのではないか!」という不安が船内を支配したという。清津港の岸壁に立ち並んだ出迎えの人たちの群れを目撃した途端、不安は現実のもとなった。歓迎の人たちは、服装がみずぼらしく、どの顔にも生気がなく、一目で栄養不足とわかった。船内には不安と動揺が広がった。下船を拒む人も現れたが、北朝鮮の官憲に引き摺り下ろされた。
日本からの帰国者は、戦後民主主義の影響を強く受け、批判精神が旺盛で権利意識の先鋭な共産主義者や社会主義者が多く含まれていた。彼らは北朝鮮の遅れた制度や文物に容赦のない批判を加え、金日成の逆鱗に触れて思想改造のため強制収容所へ送られた。帰国者93,000人のうち2万人が強制収容所送りとなったものと推定され、その中の多くの者が病死又は拷問死しあるいは銃殺刑を受けた。
宮本顕治と共産党は昭和35年以降4回も訪朝しながら、帰国者とりわけ日本人妻の生活状況を視察して、待遇改善や里帰りの約束を履行するよう北朝鮮政府へ陳情することも一切していない。そればかりか帰国者の置かれた厳しい状況を日本国内へ知らせることもしなかった。
先遣隊を先に返した親戚・家族などでは、出発前に決めた手紙のなかの隠語や暗号によって北朝鮮の実情を察知した。もともと疑っていた上に、第1便、第2便の帰国者からの生の情報が次々と伝えられたため、帰還事業が開始されて1年もたたない昭和3511月頃から帰還申請者の数が激減していった。
帰還者のもたらす富や技術に気付いた北朝鮮政府は帰還者の増大を朝鮮総連へ指示した。指示を受けた朝鮮総連は、昭和36年、韓議長自ら先頭に立ち全国を行脚、帰還運動の盛り上がりを図り、「帰国者掘り起こし」事業を強力に推進した。「帰国者掘り起こし」運動を展開する中で、帰国して社会主義国家建設に協力しないものは愛国者ではないというアピールがなされたため、韓議長以下多くの朝鮮総連幹部の子弟が帰国させられ人質となり、北朝鮮による朝鮮総連支配力は一層強まった。

3 研究所見
() 官民の左右を問わず誰も反対せず、これほど翼賛的に推進された政策は他に例を見ない。各紙はこぞって帰還事業を歓迎し賛同する記事を書き連ねた。第1次帰国船にあわせて、主要各紙は大物記者を派遣し探訪記を掲載した。特派員は入江徳郎(朝日)などの著名な記者であったが、その記事は金日成の提灯持ち的なものであり、帰国者たちの直面した悲惨な現実を伝えるものはまったくなかった。マスコミの罪は極めて重いが、これに対する反省の言葉を耳にすることはない。
() 最も帰還事業を礼賛し宣伝した朝日新聞は、拉致など北朝鮮による国家的犯罪が明確になった後の平成16(2004)518日、「帰国事業は日本政府による朝鮮人追放政策」だったという記事を載せた。終戦から昭和30年代にかけて在日朝鮮人の犯罪率が極めて高かったこと、血のメーデー事件、吹田事件などの過激な行動に関与する在日朝鮮人が多かったことなどから、在日朝鮮人の帰国は日本政府として治安上歓迎すべきことだったに違いない。しかし日本政府はあくまでも人道問題を第1と考え、北朝鮮側の朝鮮総連の申請書だけでいいという強硬な主張を斥け、厳格な本人の意思確認と第3者によるチェックを譲らなかったことということも事実であり、そのことは率直に評価すべきである。
 
希望者が増えたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想をつかしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。ところが、第1船で帰った人たちに対する歓迎振りや完備した受入態勢、目覚しい復興振りなどが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏み切ったようだ。
【昭和35226日付け(朝日朝刊)のキャンペーン記事】
() 「なぜ韓国ではなく北朝鮮へ帰国したのか?」という疑問が湧く。当時李承晩政権は経済的な理由から在日の永住帰国を事実上閉ざしていた。そのためかえって潜在する祖国への思いが高揚したものと思われる。事実、1965年の日韓国交正常化以降いつでも帰れるようになると、その熱烈な感情は色褪せた。在日韓国人の帰国に消極的だった韓国政府の対応にも一端の責任があると考えざるを得ない。
() 北朝鮮による日本人拉致が始まるのは、在日朝鮮人帰国者数が激減する昭和37(1962)年以降であるのは偶然だろうか。年表的にあるいは両者に共通した目的(技術の入手等)から憶測するとき、在日朝鮮人帰還事業と日本人拉致事件は見えない一筋の糸で結ばれているように思えてならないのである。
*資料源  ❶ 「わが朝鮮総連の罪と罰」 韓光熙(元 朝鮮総連中央本部財政局副局長)
❷ 「朝鮮総連」 金賛汀(朝鮮大学校卒、元 朝鮮総連職員、ノンフィクション作家)  ❸ インターネット資料

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