2011年10月3日月曜日

大日本帝国憲法 入門の入門(7)立憲主義(法の支配)その3

とてもわかり易く書かれています。
こちらからの転載です。
http://ameblo.jp/sangreal333/entry-11029081483.html

では、以前からのおさらいをもう一度。

 Q:憲法とは何か?
 A:憲法とは国体に関わる道徳や慣習、伝統などの不文の規範のこと。このような規範のことを「」ともいう。

 Q:「法」と法律はどう違うの?
 A:「法」は道徳や慣習などであり、不文法であって誰が定めたか分からないが長い年月にわたって祖先から継承してきたものであって、それゆえに神聖なものである。これに対して法律は特定の誰かが定めたものであり、成文法である。法律は法の下位に属し、法に従属する。法律は法に反して制定されてはならず、法に反する法律は無効となる。

 Q:立憲主義(法の支配)ってどういう意味?
 A:法に反する全ての国家機関(内閣・議会・裁判所など)の行為(命令・立法・判決など)は無効となる、という意味。「法に反する法律は無効となる」というのもその一つの現れ。


 以上3点が立憲主義(法の支配)の基礎中の基礎です。保守思想の基礎中の基礎でもありますので、しっかりと理解して下さい。

 さて、今日はそんな立憲主義(法の支配)の対立概念である「基本的人権」についてお話いたします。

 「人権を守ろう」という言葉はよく聞かれます。人権(基本的人権)というものが素晴らしいものであり、これがあってこそ人は自由に生きていけるのだ、と言われてきました。また、不都合があっても、それは人権を濫用(むちゃくちゃに使う)するから起こる不都合であって、人権そのものは素晴らしいものだと。

 これは、全くの誤りです。はっきり言いますと、基本的人権(人権)とはその理念そのものが左翼思想によるものであり、国民の自由を圧殺できる、恐るべき観念なのです。

 どういうことか、これから解説していきます。

 大日本帝国憲法下の保守思想に基づく自由については以前『国体の下の自由』でお話しました。少しだけ、おさらいをします。

 自由というものは、私たちの祖先から継承した道徳や慣習、伝統に基づいてこそ、初めて保たれます。お互いに道徳や礼儀を守り、一人一人様々に立場は違いつつも互いを尊重する気持ちがあってこそ、自由な活動をすることができます。互いに道徳や慣習を守る中にこそ信頼関係は生まれるのです。

 これこそが、「国体の下の自由」です。大日本帝国憲法下において保障されていた「臣民の権利」とはまさにこの国体の下の自由に他なりません。「法律の範囲内で」という留保はあるものの、そもそも法律は法に従属し、法に反する法律は無効ですので、これは結局のところ法によって自由を保障されていることになります。

 では、「基本的人権」はどうでしょうか。そもそも、「人」権とは「人の」権利という意味です。
この「人」とは一体何なのでしょう?

 この「人」とは、「今までの国家や道徳などというものを否定した、バラバラになってゼロの状態になった人間」という意味なのです。

 一体なぜ、このような奇妙な「人間」が想定されたのでしょうか?奇妙どころか不気味でさえあります。どんな人間でも、この世に生を受けた後は家族などから道徳などを学んでいきます。そのような道徳や家族をも否定してバラバラにされた単なる「人」とは一体何なのでしょう?

 この「基本的人権」という言葉が活躍したのは、フランス革命(1789年勃発)の時でした。革命を起こした人々は、従来のフランス王国の下で保障されていた慣習上の諸権利などを否定し、『フランス人権宣言』などでこの「基本的人権」の観念を主張していったのです。

 彼らはなぜ「基本的人権」を採用したのでしょうか?それは、この「基本的人権」が国体の破壊を起こすのに好都合の観念だったからです。

 「基本的人権」は従来の道徳や慣習などを無視して作られた観念です。つまり、これを奉じる者は、道徳や慣習や伝統などを顧みる必要はありません。「人間として生まれ持った権利だ!」とさえ主張すれば、どんな無茶苦茶なことでも権利になって主張することができてしまうのです。

 革命によって「フランス王国」を破壊し、全く別の国家である「フランス共和国」を建国して、更には「反革命派」だと一方的に名指しされた人々を処刑し、財産を没収するなどの暴虐を行うことも、「基本的人権」を振りかざせば正当化できます。

 「基本的人権」は、臣民(国民)としての道徳や義務などを一切否定し、まるで野獣に堕落したよりも質の悪い恣意と暴虐を行うことを可能にするのです。それがここで想定されている「人」なのです。

 にわかには信じられない、という方もおられるでしょう。では、『日本国憲法』を見て下さい。確かに、第12条には「これを濫用してはならない」とは書いてあります。しかし、続けてこう書かれています。「常に『公共の福祉』のためにこれを利用する責任を負ふ」。

 一見、この文言は人権といえども、好き勝手に利用してはならず、「公共の福祉」を考慮して行使しなければならない、なるほど、至極まっとうな規定だ・・・そう思えます。しかし、果たして本当にそうでしょうか?

 「公共の福祉」とは何でしょう?この言葉の定義については諸説ありますが、平たくいえば、「全体の利益」だと言っていいでしょう。つまり、基本的人権といえども、必ず全体の利益を考慮して行使されねばならない、ということになります。

 しかし、「全体の利益」とは何でしょうか?あまりにも曖昧で、一体何を価値基準に置いているのかさえもこれだけでははっきりとしません。はっきり言ってしまえば、好きなように解釈できるのです。ここには国家とか、道徳などの重要で明確な価値が完全に抜けています。「公共の福祉」は好き勝手に解釈できる曖昧なものなのです。これで本当に国民の自由を守ることなどできるはずがありません。

 国民(臣民)の自由(権利)を守るには、それが法に基づいたものでなければなりません。言論の自由や信教の自由、その他様々な重要な自由は、道徳や慣習の守られる国体の下でこそ保障されるのです。

 「基本的人権を守ろう」という言葉は、「国体を破壊しよう」「革命を起こそう」「自由を破壊しよう」というのと同じ意味です。あからさまには言えない言葉をもっともらしく言っているだけです。だまされないようにして下さい。基本的人権を守ってはいけません。基本的人権の守られる社会は、自由の消滅した恐るべき全体主義社会です。

 
 次回は、『「日本国憲法」は憲法ではない』をアップする予定です。



(参考文献)『フランス革命の省察』 エドマンド・バーク著

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