2011年5月7日土曜日

近江聖人と呼ばれた中江藤樹

中江藤樹(慶長十三年〜慶安元年:1608年〜1648年)は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)に生まれ、9歳で伯耆国(ほうきのくに)のお祖父さんの養子となり、その後藩主の国替えで伊予国大洲(現在の愛媛県)に15歳でお祖父さんが亡くなったあと家督を継ぎます。禄高は百石。

当時、武士の俸禄(一年分の給与)はお金ではなく玄米で支給されていました。百石といえば、当時一日一人平均二合反のお米を食べるとすると、年間約百十人を養えるほどの高給です。
しかし藤樹は27歳のとき、母親を気遣い一緒に大洲で住もうと提案しますが、自分のことより殿様に仕えて欲しいと断られます。それでも藤樹は自分を産み育ててくれた母親が心配でしたので、藩主に辞表を提出して生まれ故郷の母親のところに行こうとしますが藩主に却下されます。
そこで藤樹は脱藩を決意します。

当時、脱藩は殿様の恩義を裏切る行為でしたから、武士としては最も重い罪です。
(幕末の時代になると、脱藩は建前上は死罪でしたが、尊皇運動ためであれば黙認されていました)
脱藩して母親のところに行くというのは、命をかけた決心だったわけです。
追っ手が来て母の前で打ち首になってはかなわないと思い、一旦京都にとどまり藩主に手紙を書き、追っ手がくるのを待ちます。
ところが追っ手はきません。
「至誠天に通ず」(まごころを持って事に当たれば、困難なことでも理解が得られることがある)が通じたのです。

藤樹はその後安心して、小川村で母に仕えながら、生涯を通じて学問と村人の教育に励みます。そして、師匠を持つ事なく独自の学問を構築していきます。
亡くなってからは、その遺徳をたたえられて「近江聖人」と呼ばれ、熊沢蕃山(ばんざん)、淵岡山(こうざん)、大塩平八郎や吉田松陰などに影響を与えました。

世界の歴史には多くの偉人がいますが、その中でも母親の孝養のために決死の覚悟をした藤樹はとてもユニークな存在です。
出家、修道、学問専心のために一定の成果を修めた偉人の中には、親や家族を捨てた人も少なくありません。
成果や功績を上げれば親や家族を捨ててもよいというのは、成果第一主義と言えるかもしれません。仕事に夢中になり成功に固執した結果、家族がバラバラになって離婚した夫婦の話をよく耳にします。
それに対して、藤樹は孝養を人生における最も大切な努めとして実践し、結果的には独自の学問を築き多くの後継者に影響を与えるという功績を残しました。
我が国第一級の人物を言ってもいいかもしれません。

滋賀県高島市には、藤樹神社、近江聖人中江藤樹記念館があります。
機会があったら是非立ち寄ってみてください。
何か感じる物があるかもしれません。

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