2010年12月5日日曜日

日本時代の水道を「世界遺産に!」と沸く台湾

日本時代の水道を「世界遺産に!」と沸く台湾

こちらからの転載です。
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1359.html

このほど土木学会は平成二十二年度の「選奨土木遺産」として二十七の構造物を選定した。選ばれたのは札幌市の「創成橋」や仙台市の「煉瓦下水道」、宇都宮市の「鬼怒橋」、日田市の「川原隧道と石畳」等々だが、そこには一つだけ国外のものが含まれている。

「元国内のもの」というべきだろう。台湾の台南県山上郷にある「台南水道」(一九二二年竣工)がそれだ。「授賞理由」は「浜野弥四郎氏の計画・設計と施工監理による、当時の最新技術である急速濾過法を採用した大規模な浄水場である」というものだ。



浜野弥四郎(一八六九~一九三二)は台湾の衛生環境の大改善における大功労者である。

一八九五年、日本が領有した当時の台湾はペスト、マラリア、コレラなどの風土病がつねに猖獗を極め、そのため島民の平均寿命はわずか四十歳程度だった。島内の武力反抗平定のため上陸した日本軍は五千人に近い死者を出したが、そのうち戦死者はわずか百六十人ほどで、四千六百人は風土病に罹った戦病死者だった。

かくして衛生環境の改善を統治政策の要の一つとした台湾総督府は上下水道建設のため、一八九六年に東京帝大の英国人教師ウィリアム・バルトンを衛生工事顧問として招聘したが、その助手として同行したのが教え子の浜野弥四郎だった。

浜野は滞在三年目でマラリアに罹って東京へ戻ったバルトンの任を継ぎ、一九一八年に離台するまでの二十三年間で、当時はまだ東京にも見られなかった先進的な貯水池、上下水道計画を基隆、台北、台中、台南などの主要都市で完成させたのだった。

「台南水道」(現山上浄水場)が出来上がったことで、当時台南市民を悩ませていた飲用水不足の問題は一気に解決を見た。当時の市民人口は六、七万人だが、これによって十万人分の水が供給されるようになったからだ。

このように、浜野の水道建設は台湾を「人の住める島」に変えたばかりか、「近代化の島」へと変貌させて行く上で大きな役割を果たしたのである。

こうした歴史的功績は、日本人は忘れてしまったが、しかし台湾人は忘れていなかった。奇美実業の許文龍董事長は二〇〇五年、山上浄水場に残る浜野の胸像の台座(胸像は戦時中供出された)の上に新たな胸像を設けた。


復元された浜野弥四郎の胸像

またその年、「台南水道」は「国定古蹟」となるなど、その歴史的意義が大きくクローズアップされている。

間もなく台南市と台南県が合併し、直轄市(政令指定都市)としての台南市が誕生するが、先ごろ行なわれたその台南市長選挙で当選した頼清徳氏(民進党)は選挙期間中、「台南水道」を視察に訪れ、「日本統治時代の台湾近代化を物語る重要な歴史建築であり、台南及び台湾の発展史上極めて深い意義を持つ。もし私が当選したら、ここを整備して景観ポイントとし、文化観光事業を推進して、台南の誇りとして再興したい」「台南を台湾の文化的首都とするためにも、ここはまさに最も重視されるべき指標となる」とし、世界遺産への登録申請を行う考えまで示していた。

そうしたところへ届いたのが土木学会による「土木遺産」への認定の報だ。現地では世界遺産への登録申請の機運が盛り上がっているらしい。

実は二十一年度の「選奨土木遺産」では、やはり台南県で八田與一技師が建造した烏山頭ダムも選ばれており、その際も世界遺産申請への夢が大きく膨らんだことがあった(台湾の文化建設委員会は同ダムなどを「世界遺産申請の潜在的ポイント」として登録している。民間でも申請を求める署名活動が行われている)。

これらを世界遺産に登録するには、台湾政府がユネスコに申請しなければならないが、同国はその機関に加盟していないため、申請資格はない。そこで期待が集まるのが日本政府が代理申請するとの方法だ。ただこうした代理申請が認められるか否かは、前例がないためよくわからないらしい。

しかし日本政府が動き出したら、これはとても素晴らしいことだ。こうしたアクション一つで国民は大きく変わる。

自国の近代史に対する愛着、誇りは一気に高まることだろう。またこのように日本の先人の歴史的営みを高く評価してくれる台湾という国の存在に気付き、感動することだろう。

だが仮に日本政府が代理申請を行おうとすれば、中国はきっと妨害の圧力を加えてくることだろう。

全文はこちらを。http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-1359.html

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