2010年12月22日水曜日

【寄稿・読書録】さらば 在日日本人

日本国憲法とは何か、どのようにできたかについての読書録です。
寄稿いただきありがとうございました。


Ⅰ.国家理念なき憲法ー国家の正当性の欠落

現在では日本国憲法はGHQの押し付け憲法であることは公然の秘密だが、世界最大の軍事大国が戦争放棄の憲法を人類の理想であるからと押し付けるのは冗談にもほどがある。それをするなら自らが放棄してからにせよと言ってみても仕方がないが。
現行憲法の制定過程については多少の紆余曲折はあったが基本的にはs21年2月13日に手交された次の三原則(マッカーサー三原則)に基づいて作成された。
  1. 天皇は国家の首部にある。皇位の継承は世襲である。天皇の義務および機能は、憲法にもとづき行使され、憲法の定める人民の基本意思に対応する。

  2. 国家の主権的権利としての戦争を破棄する。日本は国家の紛争解決のための手段としての戦争および自己の安全を保持するための手段としてのそれも放棄する。日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある崇高な理念にゆだねる。

  3. 日本の封建制度は廃止される。皇室を除き華族の権利は現存する者一代以上に及ばない。華族の授与は爾後どのような国民的または市民的な政治権力を含むものではない。

いわゆるこのマッカーサー憲法草案が日本政府代表に手渡され それを最大限考慮して改正憲法草案を作成するよう勧告がなされた。ほかのことは独立後変更できるが皇室は一度消滅させられたらとりかえすことができないため、すべてを犠牲にしても皇室の存続をはかるというのが当時の日本政府の方針であった。このような経緯でGHQは日本を弱体化する目的で立法したのが、現行憲法であるが、立法といっても正規の手続きを踏んでいない。そもそもが占領占領下での法改正は国際法違反である。外国憲法には占領下の憲法改正を明文をもって禁止している。

また形式的には明治憲法第73条による改正ということにされたが、GHQが一週間位でつくった英文憲法を日本政府案として提出し、それを審議してあたかも日本の国会が憲法制定したような形を整えたにすぎない。そこで当時の帝国議会(貴族院)は時間切れで審議未了でながしてしまう計画であったが、それも時間切れの5分前で時計は全部止められ強行採決されてしまったのである。衆議院にしてもS21年の4月の総選挙が行われてできたのだが直前に公職追放が行われ、当時の進歩党などは既成議員が90%以上も追放されて候補者がいなくなっていた。さらに当時国民には言論の自由があたえられず、新聞社は厳重な検閲下に置かれており、その検閲のもっとも重要な対象が「SCAPが憲法を起草したことにたいする批判」であった。このような顛末でできあがった憲法がまともであるはずがない。従属国フィリピンの憲法にお湯をかけてたった1週間でできたインスタントラーメンのような憲法なのである。国家は独立国として当然あるべき主権を放棄し逆に国民にはあるはずのない主権を与え国民を「無限の権力」として主権の保有者とする。つまり、国際社会においては殴られても殴り返しませんと表明し、正当な権利を主張せず、国家にたいしては不当な権利を要求して国内騒乱を扇動示唆しているのである。
憲法前文ではそれらが人類普遍の原理だと喝破するのだから恐れいる。現行憲法が我が国を骨抜きするための「占領憲法」である所以だ。憲法はあらゆる国家の基本権(主権、独立、平等、自衛、宣戦布告、交戦、名誉権など)を前提とするが故に成立するわけだが、これはもう実質的には憲法ではなく「独立放棄宣言」かあるいは「国家否定宣言」の類であって条約的性質のものである。そもそも憲法の議論になると第9条が中心になるきらいがあるがこの第9条はそもそも前文に由来する。重要なのは個々の条文よりもむしろ全体を貫く思想であって問題の本質は現行憲法の理念である前文が最大の論点といえる。東京裁判史観によって成り立つ憲法前文の論理は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」という悪い日本政府が間違った戦争を起こしたことを反省するという見解に立脚していて、日本は侵略国であり、国家権力は悪であるということをまず前提としているのだ。そして「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」のはいいとしても、「平和を愛する国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という東京裁判史観に輪をかけたようなウソが書いてある。この世界に公正と信義に信頼できる諸国がどこに存在するのか。国際法のなかでも基本中の基本である「内政不干渉の原則」すら守れない国(中共憲法の前文には相互内政不干渉が書かれている)が近隣にあるのに。このように憲法前文には国家観念を喪失せしめる、もしくは反国家、反権力を賛美する思想が込められているのである。
この思想汚染によって「負けるから軍備をもってもしようがない」という敗北主義がこの国を支配するに至ったのである。
また日本民族の精神生活を縛るために米国から押し付けられた憲法なのだから当然であるが、歴史や伝統を継承していないという意味で常識が欠落した「非常識憲法」ともいえる。
そもそも憲法とはコンスティチューションのことで英国ではじまった考え方だが、この意味するところは、体格、体質、であって、それは国柄である。それをどれだけ憲法に盛り込めるかが大事なのであって憲法には、その国が歴史の中で培ってきた伝統に基づく国柄が)述べられたものでなくてはならない。

Ⅱ.現行憲法の三大悪  平和主義、国民主権、基本的人権

一つ目、最大の害悪は他人まかせの平和主義観念である。「平和を愛する諸国民、、、」は憲法9条と関連したもので、自らの安全も生存も他国に依存しようとする平和主義の「戦争放棄」の根拠はここにある。自らの生存さえも守ろうとしないと決意するとは、まさに奴隷宣言である。欧米では平和主義といえば、その多くが無責任で無関心な者という否定的な意味でつかわれる。

二つ目は憲法前文には「主権が国民に存する」ことが人類普遍の原理だと謳っているが、「国民主権」は人治主義であって「戦後民主主義教」もこの「国民主権」に由来し、法治主義である文明に逆行する。それはハイエクがいっているように「主権」がどこにあるかと問われればどこにもないというのがその答えである。

現在の国際社会を構成している国民国家は、すべて憲法に基づく立憲体制をとっているのであって、「主権」が無制限の権利と定義されるなら、そこの主権の入り込む余地はありえないのだ。ルソーにより「国民主権」が編み出された。誰が絶対的で無制限の権力を握るのかという対立でしかなく、対内的な主権概念は前近代の概念である。本来、主権は最高性、独立性を意味するもので、法によって制限を受けたり権力の分立によるチェック・アンド・バランスによる制約をうける統治権とは異なり、近代では不要で不適合なものであって、主権は絶対主義のイデオロギーなのである。したがって「主権」の用語は国際法上の「国家主権」という意味のみに使用するのが現実的である。

そして三つ目の「人権」についてはアナクロニズムだということである。こんな時代錯誤のスローガンを並べるのが現行憲法である。
人権等がある程度有効であったのは、奴隷制度や人身売買などによって著しく人の自由が束縛されている場合であって、我が国には全く無用であるし現在は国際社会で外交に悪用されているだけで全く益はない。人間ならばだれだって持っている権利が人権なのだというような人間であることですでに何らかの権利を保持しているという前提で成り立っている。これは一神教的な考えに由来するもので、欧米流の一元的な世界観から成り立っている。人間を他の動物より上位に置く独善的で思いあがった思想はわが日本人には理解しがたい観念というしかない。


それに現行憲法では様々な権利が明記されているがいずれにせよ人民の自決権が認められず、国家が奴隷のように外国に従属するような状況の下では権利もクソもない。たとえ人権なるものがありうるとしても、人権そのものの享有が不可能となる。25条で「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などと、謳っているが、個人が化的な生活を営めるのは、その個人を支える共同体の歴史や伝統が守られているからである。国家の独立が許されず、国家の自由が縛られたままで個人の自由などあるはずがなく、個人の文化的生活を保障するのは、国家の歴史や伝統が護持されているが故であって、それが否定された状況で個人の文化的生活が営める訳がない。

「さらば 在日日本人」山下 正仁著 展転社





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