2011年6月1日水曜日

日露戦争で日本が得たもの〜日本人は決して大人しいわけではない

 明治三十八年六月。米国大統領ルーズベルトの勧告で、日本とロシアは日露戦争の講和をすることになりました。ロシア側の全権はウィッテ元蔵相、日本側の全権は外務大臣の小村寿太郎でした。
 会議場のまったポーツマスに乗り込んだウィッテは終始ニコニコ顔。対する小村寿太郎は苦虫をかみつぶしたような表情だったそうです。それもそのはず。戦争に負けたロシアは「賠償金は一銭も出さない。樺太も半分くらいは譲ってもいいが、それ以上はごめんだ。不服ならもう一戦することも辞さない。」そんな態度でした。
 日本側は樺太だけでなく沿海州までを割譲させ、多額の賠償金も手に入れることを目論んでいたのが水の泡、もう一度戦争をする体力は残っていない。苦しい立場に追い込まれていました。
 この講和条約の内容が知られると、多くの日本人が不満を持つことは必至。日本政府はなるべく内容を知られないようにしました。
 ところが大阪朝日が新聞にこのことを掲載してしまいます。特ダネでした。政府は狼狽します。大阪朝日は記者との間で事前に平文の暗号(合い言葉のようなもの)を決め、電報でこの講和の内容を知らせてきていたのです。
 この朝日の報道が多くの日本人に火をつけました。
 九月五日には、日比谷公園で講和条約反対の国民大会が開かれ、前衆議院議長の河野広中、小川平吉、大竹貫一らが演壇に立って熱弁をふるう。怒りに燃えていた数千の人々は、一斉に町に流れ出し、それを押さえようとした警察とぶつかり、交番が焼き討ちされ、電車も焼かれました。内務大臣官邸も襲われ、暴徒はますます数を増して夜になっても騒ぎが収まりません。
 明け方になって一旦騒ぎが収まったかと思うと、夜になるとまた人々が集まり騒動が収まりません。これが九月十三日に戒厳令がしかれるまで続きました。負傷者数千二十九名、死者は十三名。焼き討ちされた警察が八署、派出所や交番が二百二十六カ所、民家が四十七戸、教会が三つと電車が十五台、消防ポンプ三台も焼かれました。その後、時の総理であった桂太郎は、責任を取って第二次桂内閣を総辞職させます。

近年では竹島や尖閣諸島、北方領土などの領土の問題が取り上げるられることが増えました。
これらは長い間、放置されてきた問題です。

パチンコ反対、人権擁護法案反対といった抗議活動もしばしば見られます。
パチンコの問題は警察の天下り利権、人権擁護法案は法務省官僚の企てだという話を聞きます。

最近の抗議行動は日の丸を掲げて行進してシュプレヒコールをあげる。
とても大人しい抗議行動です。
しばしば、日本人は行儀が良いから暴動なんか起こさないという話をする人がいますが、本当に行儀が良いからでしょうか?
もしかすると、国の危機に対して鈍感なだけかもしれない、そんなことを歴史を振り返って思うことがあります。
いつのまにか戦後の「命は重い」という考え方が浸透して、「命をかけて国を守る」という気概を失っているかもしれません。

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