2011年9月23日金曜日

大日本帝国憲法 入門の入門(5) 〜 立憲主義(法の支配) その1 〜 (`・ω・´)シャキーン

こちらからの転載です。
http://ameblo.jp/sangreal333/entry-11022591314.html


 今日は立憲主義(法の支配)についてお話します(`・ω・´)シャキーン 長くなりますので今回と次回の二回に分けてお話します。

少しおさらいします。

以前お話したことですが、そもそも憲法とは何でしょうか?端的に定義してみて下さい。

そうです。憲法とは、国体に関わる道徳や慣習、伝統などの不文の規範のことです。覚えていなかった方はここでしっかりと覚えておいて下さい。これは大変重要です。

さて、これも以前少しお話しましたが、この不文の規範(文章化されていないルール)のことを「法」と呼びます。つまり、法とは国体に関わる道徳や慣習、伝統などのことです。ということは、お分かりですね。法と憲法は、同じ意味なのです。

そしてこれも重要なことなので絶対に覚えてほしいのですが、「法」と「法律」は異なるものです。「法律」は例えば議会のような、特定の人間または機関によって制定された、つまり誰がつくったか分かっているものですが、「法」はあくまでも道徳や慣習などです。誰がつくったか分かりません。また、「法律」は成文化されているものですが、「法」は成文化されていません。

「 国体に関わる道徳や慣習、伝統などの規範 = 憲法 = 法 」

「 法 と 法律 とは全く異なるものである 」

必ず覚えて下さい。これこそが保守思想の基礎の基礎です。

憲法というと、第何条、何々、というようにすぐに文章化されたものを思い浮かべます。しかし、本来の憲法は文章ではありません。文字によって書かれたものではありません。本来の憲法とは、文字によって書かれていない、文章化されていない道徳や慣習、伝統なのです。それ故に神聖なものであるのです。

ただ、文章化されていないということによる不便な点もあります。また、我が国においては国政上の重要な改革が行われるその時々に、法を再確認する意味を込めて、特に強調すべき法を成文化することがあります。

例を挙げてみます。古くは聖徳太子が制定された十七条の憲法は、その基本となる理念は法です。法を具体的に文章化して表現したものが十七条の憲法です。五箇条の御誓文も同じです。我が国の国体を簡潔ながら文章化して表現したものであり、これらは憲法です。

従って、これも非常に重要なことですが、タイトルに「憲法」とついているかいないかなどは、全く関係ありません。大切なことは、書かれていることの中身が憲法であるかどうか、なのです。五箇条の御誓文は「憲法」というタイトルにはなっていませんが、それでも憲法です。法を文章化したものだからです。

逆に、いくらタイトルが「~憲法」であっても、中身が憲法でないものは憲法ではありません。そんなものはただの作文であって、憲法としては無効です。

もちろん、大日本帝国憲法は我が国の法を詳細に成文化したものであって、憲法であるといえます。しかし、唯一の憲法である、とまではいえません。簡潔ながらも十七条の憲法や五箇条の御誓文なども、大日本帝国憲法と並んで現在も我が国の憲法です。

少し脱線しますが、鎌倉時代、北条泰時によって『貞永式目(御成敗式目)』が制定されました。これは武家社会の慣習や問注所の判例などという不文の規範を成文化したものです。もっとも、武家社会のみを規律する規範なので、憲法であるとまではいえないでしょう。

このように、我が国においては立法(法律を制定する)するときには立法者が自分でその内容を考えるのではなく、道徳や慣習のような不文の規範を成文化して法律を制定することが行われてきました。

人間の社会というものは複雑な関係で成り立っています。特に国家というものは、気の遠くなるような長い年月を経て人々の関係が調整され、出来上がっていきます。

誰か一人の英雄とか天才とか、一握りのエリートの集団の意志や命令で国家が形成されるのではなく、誰が作ったわけでもない、名もなき無数の先人たちの営みの中から道徳や慣習などが形成され、それが守られて定着していくのです。

しかし、このような立憲主義(法の支配)とは全く逆に、これを否定して一人の英雄や天才、またはエリートの集団の力で一から国家を形成しようという試みは人類の歴史上、幾度か行われてきました。革命といわれるものがそれです。

この革命の第一号といえるフランス革命においては、いわゆる人間の理性への盲信により、従来の道徳や慣習などを破壊して新国家を建設しようという試みが行われました。「基本的人権」の観念がここから誕生したことは前回お話しましたね。

このような試みは以後も何度も行われています。しかし、いずれも悲惨な失敗に終わりました。国家というものを秩序立てていくには、とてもとても一握りの人間の頭脳でできることではないのです。

新しいことをやるのはもちろん構わないのですが、それはあくまでも国体を破壊するようなものでない範囲内のことに限られます。

さて、こうして、議会が制定する「法律」も、内閣などが制定する「命令」も、裁判所が行う「判決」も、およそ国家の機関が行う行為は全て法に違反してはならないことになります。これが立憲主義(法の支配)です。天皇陛下の行われる行為さえも法に反することは認められません。「天皇といえども国体の下にある」ですね。

「 立憲主義(法の支配)とは、議会や政府や裁判所など、国家機関の行う行為の全てが法に反してはならない、ということである 」

さて、次回はこの立憲主義と対立する概念、「国民主権」についてお話します(`・ω・´)シャキーン

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