2011年9月23日金曜日

大日本帝国憲法 入門の入門(6)立憲主義(法の支配)その2 国民主権(民主主義)は左翼思想です

こちらからの転載です。
http://ameblo.jp/sangreal333/entry-11025954151.html


 こんばんは。(`・ω・´)シャキーン

前回のおさらいを簡単にしましょう。覚えているかどうか試してみて下さい。

Q:憲法とは何か?

A:憲法とは国体(その核心は天皇による祭祀と天皇による統治)に関わる道徳や慣習、伝統などの不文の規範のことである。これらの規範のことを「」とも呼ぶ。

Q:「法」と「法律」の違いは?

A:「法」は道徳や慣習などであり、不文法であって、我々の先祖の英知の結晶であり、誰が定めたか分からないものであるが、「法律」は成文法であり、定めた者(立法者)がはっきりしている。そして「法律」は「法」の下位に位置し、法に従属する。「法律」は「法」に違反して制定されてはならない。

Q:「立憲主義(法の支配)」とはどういう意味?

A:「法」はすべての国家機関の上位に立つものであり、内閣・議会・裁判所などの全ての行為は「法」に反して行われてはならない。「法」に反する命令・立法・判決などは無効となる、という意味。


さて、今日はこの立憲主義(法の支配)に反する観念である「国民主権(民主主義)」についてお話したいと思います。「基本的人権」についてもお話する予定でしたが、長くなってしまいましたので次回の「その3」でお話します。

ここで、少し違和感を持たれた方もいらっしゃると思います。国民主権とか、民主主義とか、基本的人権・・・みんな教科書で大切なものだと習ったものばかりだ。これらが否定されれば、自由などなくなってしまうのではないか?立憲主義と国民主権や基本的人権は、お互いに矛盾しないものではないのか?

実は、それは全くの誤解なのです。国民主権(民主主義)や基本的人権というものは、立憲主義(法の支配)を破壊して国民の自由を奪う、非常に危険な思想を背景にしているのです。

そもそも、国民主権(民主主義)とは一体どういう意味なのでしょうか。話し合いで政治を決めていくこと?そんな風に習った方もおられるかもしれませんが、それは完全な間違いです。話し合いで政治について決めていくというならば、これは正しいことです。しかし、国民主権(民主主義)とはそういう意味ではありません。

「主権」という言葉にはいくつかの意味があります。国民主権の「主権」というのは、「その国家のあり方についての完全で最終的な決定権」という意味なのです。

つまり、国民主権(民主主義)というのは、「その国家のあり方についての完全で最終的な決定権を国民が持つ」という意味なのです。これは大切なことなのでしっかり覚えて下さい。国民主権(民主主義)とは、「話し合い」で政治について決定していくという意味ではありません。そう誤解されている方が非常に多いようですが、とんでもない間違いです。

それでいいじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、これはとんでもないことなのです。これは、国民の意思で、自分たちの住んでいる国家を好きなように作り替えることができますよ、ということなのです。民主主義というのも民主、すなわち民が国の主である、という宣言なのです。国というものは民の意思で好き勝手に作り替えることができるのだ、ということなのです。

それのどこがよくないの、もっといい国になるなら構わないではないか、と言われる方もおられると思います。しかし、よく考えてみて下さい。

国家というものは、何百年、何千年という長い歳月を経て徐々に形成されてきたものです。人と人の間には様々な複雑な関係が存在します。国家という大きな人口を抱え、互いに複雑な利害関係を生じ、しかも外部には他の国家という敵となり得るものと対峙せざるをえない存在において、この内部を秩序立てていくことは容易なことではありません。

国家のあり方を決めるのは、到底一人の英雄とか天才とか、あるいは知識のあるエリートの集団とかにできることではないのです。どんな人間であれ、そのような頭脳を備えた者はいません。そんなことは人間の能力の限界を超えることです。現に歴史がそれを証明しています。

国家というものを秩序立て、そのあり方を決めているのは、以前にもお話しましたが、そのような特定の人物や集団ではなく、誰が決めたか分からないながらも、古来から守られてきた英知の結晶である、国体に関わる道徳や慣習や伝統なのです。

これらの道徳や慣習や伝統は、何百年、何千年という時の試練を経て国民を秩序立て得ることが証明されているため、神聖なものなのです。

だからこそ、法律や命令なども一人の頭のいい人が一から考案するよりも、このような道徳や慣習などに基づいて制定(というよりむしろそれらの道徳や慣習を再確認する)するほうがうまくいくのです。法律を制定するならば、必ず祖先の英知に学ばねばならない、ということなのです。

しかし、「国民主権」の「主権」はこれらのことを否定します。「国民の意思」さえあれば、そのような道徳や慣習など無視しても構わないと主張します。話し合いが必要だということさえも当然には前提にしません。ひいては、国体に関わるような道徳や慣習や伝統さえも、国民が賛成すれば変更することができるというのです。

それならば、話し合いがされればいいのでしょうか?例えば、国体に関わるような道徳や慣習や伝統を変更するような法律を制定しようとしているとします。それが国民の間で繰り返し話題にされ、世論調査もされ、議会でも何度も何度も話し合いがされた。その結果、その法律を制定しようということに議会では議決された・・・このような場合、その国民は国体を変更できるのでしょうか?

以前からこのブログをお読みになって頂いている方はお分かりかと思いますが、これはできません。国体を変更することは、誰にも、いかなる場合にも不可能です。我が国について言えば、入門の入門(2)でお話したようにたとえ「天皇といえども国体の下にある」のです。

いくら話し合いに話し合いを重ね、世論調査をし、時間をかけ、賛成だという結論に至ったとしても・・・特に我が国の如く、数千年の長きにわたって形成されてきた偉大な祖先の英知の結晶たる国体に関わる規範を、我々にそれを覆し得るだけの知見が備わるはずはありません。数千年に及んで培われてきた国体に関わる規範を否定できる知見を有する者などいないのです。能力も権利も、ありません。

国民主権による国体破壊が暴力を伴うものになると、革命と呼ばれます。革命は国体を破壊して新しい国家を一から建設しようとするものなのですが、人類の歴史に照らすならば、ご存知のように、これらの革命はいずれも大量虐殺や強制収容所に代表される自由の抑圧など、悲惨な結果をもたらしました。

しっかりと、心に留めておいて頂きたいのです。「国民主権」というものは、国体を破壊する革命思想であり、祖先の英知を否定する傲慢な左翼思想のプロパガンダであるということを。この言葉を単なる「話し合いによる政治」の意味に使っていても、言葉というものには命があります。必ず危険な左翼思想に引きずられていくことになります。

言うまでもないことですが、誤解のないように言っておきますと、立憲主義(法の支配)の下においてもいわゆる「合議制」(話し合いによる政治)を否定するものではありません。それどころか話し合いによって、国体を害さない範囲で政治について決定していくというのは、むしろ我が国古来の伝統でさえあります

『古事記』に見られるように、高天原の神々も合議によってことを決しています。神々の世界は天照大神の独裁(天照大神の主権)ではありません。人の世となり、天皇の治らす代となっても豪族による合議で政治は決せられていきます。合議制こそはむしろ、我が国の国体の一部であるとさえ言えるでしょう。


次回は国民主権と同じく左翼思想に根ざす危険な観念「基本的人権」についてお話いたします。 (*´ω`*)

大日本帝国憲法 入門の入門(5) 〜 立憲主義(法の支配) その1 〜 (`・ω・´)シャキーン

こちらからの転載です。
http://ameblo.jp/sangreal333/entry-11022591314.html


 今日は立憲主義(法の支配)についてお話します(`・ω・´)シャキーン 長くなりますので今回と次回の二回に分けてお話します。

少しおさらいします。

以前お話したことですが、そもそも憲法とは何でしょうか?端的に定義してみて下さい。

そうです。憲法とは、国体に関わる道徳や慣習、伝統などの不文の規範のことです。覚えていなかった方はここでしっかりと覚えておいて下さい。これは大変重要です。

さて、これも以前少しお話しましたが、この不文の規範(文章化されていないルール)のことを「法」と呼びます。つまり、法とは国体に関わる道徳や慣習、伝統などのことです。ということは、お分かりですね。法と憲法は、同じ意味なのです。

そしてこれも重要なことなので絶対に覚えてほしいのですが、「法」と「法律」は異なるものです。「法律」は例えば議会のような、特定の人間または機関によって制定された、つまり誰がつくったか分かっているものですが、「法」はあくまでも道徳や慣習などです。誰がつくったか分かりません。また、「法律」は成文化されているものですが、「法」は成文化されていません。

「 国体に関わる道徳や慣習、伝統などの規範 = 憲法 = 法 」

「 法 と 法律 とは全く異なるものである 」

必ず覚えて下さい。これこそが保守思想の基礎の基礎です。

憲法というと、第何条、何々、というようにすぐに文章化されたものを思い浮かべます。しかし、本来の憲法は文章ではありません。文字によって書かれたものではありません。本来の憲法とは、文字によって書かれていない、文章化されていない道徳や慣習、伝統なのです。それ故に神聖なものであるのです。

ただ、文章化されていないということによる不便な点もあります。また、我が国においては国政上の重要な改革が行われるその時々に、法を再確認する意味を込めて、特に強調すべき法を成文化することがあります。

例を挙げてみます。古くは聖徳太子が制定された十七条の憲法は、その基本となる理念は法です。法を具体的に文章化して表現したものが十七条の憲法です。五箇条の御誓文も同じです。我が国の国体を簡潔ながら文章化して表現したものであり、これらは憲法です。

従って、これも非常に重要なことですが、タイトルに「憲法」とついているかいないかなどは、全く関係ありません。大切なことは、書かれていることの中身が憲法であるかどうか、なのです。五箇条の御誓文は「憲法」というタイトルにはなっていませんが、それでも憲法です。法を文章化したものだからです。

逆に、いくらタイトルが「~憲法」であっても、中身が憲法でないものは憲法ではありません。そんなものはただの作文であって、憲法としては無効です。

もちろん、大日本帝国憲法は我が国の法を詳細に成文化したものであって、憲法であるといえます。しかし、唯一の憲法である、とまではいえません。簡潔ながらも十七条の憲法や五箇条の御誓文なども、大日本帝国憲法と並んで現在も我が国の憲法です。

少し脱線しますが、鎌倉時代、北条泰時によって『貞永式目(御成敗式目)』が制定されました。これは武家社会の慣習や問注所の判例などという不文の規範を成文化したものです。もっとも、武家社会のみを規律する規範なので、憲法であるとまではいえないでしょう。

このように、我が国においては立法(法律を制定する)するときには立法者が自分でその内容を考えるのではなく、道徳や慣習のような不文の規範を成文化して法律を制定することが行われてきました。

人間の社会というものは複雑な関係で成り立っています。特に国家というものは、気の遠くなるような長い年月を経て人々の関係が調整され、出来上がっていきます。

誰か一人の英雄とか天才とか、一握りのエリートの集団の意志や命令で国家が形成されるのではなく、誰が作ったわけでもない、名もなき無数の先人たちの営みの中から道徳や慣習などが形成され、それが守られて定着していくのです。

しかし、このような立憲主義(法の支配)とは全く逆に、これを否定して一人の英雄や天才、またはエリートの集団の力で一から国家を形成しようという試みは人類の歴史上、幾度か行われてきました。革命といわれるものがそれです。

この革命の第一号といえるフランス革命においては、いわゆる人間の理性への盲信により、従来の道徳や慣習などを破壊して新国家を建設しようという試みが行われました。「基本的人権」の観念がここから誕生したことは前回お話しましたね。

このような試みは以後も何度も行われています。しかし、いずれも悲惨な失敗に終わりました。国家というものを秩序立てていくには、とてもとても一握りの人間の頭脳でできることではないのです。

新しいことをやるのはもちろん構わないのですが、それはあくまでも国体を破壊するようなものでない範囲内のことに限られます。

さて、こうして、議会が制定する「法律」も、内閣などが制定する「命令」も、裁判所が行う「判決」も、およそ国家の機関が行う行為は全て法に違反してはならないことになります。これが立憲主義(法の支配)です。天皇陛下の行われる行為さえも法に反することは認められません。「天皇といえども国体の下にある」ですね。

「 立憲主義(法の支配)とは、議会や政府や裁判所など、国家機関の行う行為の全てが法に反してはならない、ということである 」

さて、次回はこの立憲主義と対立する概念、「国民主権」についてお話します(`・ω・´)シャキーン

大日本帝国憲法 入門の入門(4)〜国体の下の自由(権利)〜 (`・ω・´)シャキーン

こちらからの転載です。

 こんばんは(`・ω・´)シャキーン

今日は、憲法の規定の中で私たちに直接の関わりのある、「第二章 臣民権利義務」について概略をお話します。各条文の解説については後日に譲ります。ここでは特に、日本国憲法に定められているいわゆる「基本的人権」との違いについてお話致します。

私たち日本人は、古来様々な社会的・文化的活動を通じて世界に誇る高い文明を築いてきました。現代に生きる私たちの生活は、先人たちの営々たる勤勉と努力の賜物です。

国家の中において、人々が様々な活動をしていくうえでは、それに応じた様々な自由(権利)が保障されていることが必要です。自由や権利などという呼び方をしなかった古の世においても、時の政権から自分の思想や行動に対して一定の程度の干渉を受けないということは我が国の中で慣習(不文の規範)として保障されていました。

このような、時の政権から自分たちの思想や行動に対して、一定の程度で干渉を受けないとされていること、これらも我が国の文明を支えていく上でとても重要なものであり、国体に関わる規範なのです。

そこで、大日本帝国憲法においてはこれらの国体に関わる不文の規範を成文化し、臣民の権利と義務として憲法に取り入れたのです。

従って、大日本帝国憲法に定められている自由(権利)は我々の祖先から継承した道徳や慣習などに基づくものであり、あくまでも国体を害することのない範囲内において認められるものなのです。



さて、さらに理解を深めるために、日本国憲法に定められている「基本的人権」と比較してみましょう。

臣民の権利(国体の下の自由)というのと、基本的人権というのとでは、一見あまり違いはないような気がします。どちらも権利(自由)であることに変わりはないと思いがちです。

しかし、これはとんでもない間違いです。両者は似て非なるものどころか、根本的に全く異なるものです。これは非常に大切なことなので、しっかり理解しておいて下さい。

まず、そもそも基本的人権とは何なのか、についてお話します。

フランス革命をご存知でしょうか。この時、いわゆる『フランス人権宣言』が出されています。ここで、「臣民(または国民)の権利」と「基本的人権」の違いが分かります。

「臣民(国民)の権利」とは、前述の如くその国家の中において、先祖から継承してきた道徳や慣習に基づく自由(権利)です。しかし、「基本的人権」は「人」の権利です。「臣民(国民)」の権利ではありません。この「人」とは何なのでしょうか。

この「人」とは、「臣民(国民)」の対極をなすもの、すなわち、国家やそれを支える伝統や慣習を否定した、バラバラに分解された「個人」を表すものなのです。

なぜそのようなものを考える必要があったのでしょうか。言うまでもなく、革命のためです。革命とは国体の破壊です。これを成功させるためには、道徳や慣習を破壊することから始めねばなりません

そこで、革命を起こした人々は自分たちの憲法を制定するにあたって自由(権利)を従来の伝統や慣習とは切り離されたものとして構成していったのです。これが基本的人権です。

従って、「基本的人権」または「人権」というものには、本質的に従来の道徳や慣習を破壊する思想が込められているのです。このことはあまり知られていないようですが、非常に重要なことなのでよく理解しておいて下さい。

「基本的人権」は、我が国の国体を破壊する思想に基くものです。これに対して、「臣民(国民)の権利(自由)」は我が国の国体に基づく権利(自由)です。両者が全く違うものであることがお分かり頂けたことと思います。

少し長くなりましたのでこれくらいにしておきますが、「基本的人権」や以前お話しした「主権」についてはいろいろな問題がありますので、いずれ詳しくお話したいと思います。

大日本帝国憲法 入門の入門(3)〜天皇は統治すれども親裁せず〜 ( ´ω`)

こちらからの転載です。
http://ameblo.jp/sangreal333/entry-11014202943.html


 さて、今日のテーマは「天皇は統治すれども親裁せず」です。(´ω`)

 まず、第1条を見てみましょう。これは我が国の国体に関わる不文の法を成文化したものの一つです。

 第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

 万世一系とは、皇統が絶えず、永久に続くことを表します。天皇が我が国を過去も、現在も、未来も永遠に統治するということです。
 
 国体に関わる不文の法を成文化したもので、皇統に関わるものについては第2条も重要ですが、これは各条文の解説時に改めて解説します。

 
 
 次に、第4条です。これも国体に関わる不文の法を成文化したものです。

 第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ

 ここでは天皇が統治権を「総攬」すると規定しています。

 統治権とは、立法権・行政権・司法権の三権を指します。すなわち、天皇が立法権・行政権・司法権の三権の全てを行使する、ということなのです。

 では、天皇陛下が直々に法律を制定され、命令を出され、裁判まで執り行っておられたのかというと、もちろんそれは違います。

 

 天皇は神聖なる存在であって、国家の大変事を除いては俗事たる政治の実務に関わるべきではありません。これもまた、国体に関わる不文の法です。これを成文化したものが第3条です。

 第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

 従って、政治の実務について実際に決定していく機関を別に設けねばならないことになります。

 ここに内閣・帝国議会・裁判所がそれぞれ、天皇の名において行政・立法・司法の三権を行使していく体制が採られたのです。
 
 これをもって、「天皇は統治すれども親裁(直々に政務を執り行うこと)せず」というのです。

 
 各条文の解説は後に譲りますが、

 第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ

 第55条 第1項 国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責二任ス

 第57条 第1項 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ

 これらの条文は、天皇が統治権を総攬しつつ、政治の実務は帝国議会、内閣、裁判所が行うことを定めています。

 こうして、前回も述べたように「天皇といえども国体の下にある」結果、その天皇の名において政治の実務を執り行う機関の全ての行為も国体の下にあり、それに反してはならないことになります。

 このように、立法・行政・司法の三権の行為(法律や命令の制定、裁判手続や判決など)が国体に関わる規範(法)に反して行われてはならないとすることを、立憲主義または法の支配といいます。



 次回のテーマは「国体の下の自由(権利)」を予定しています。( ´ω`)ノ

大日本帝国憲法 入門の入門(2) 〜天皇といえども国体の下にある〜 (`・ω・´)

わかりやすいと公表のブログからの転載です。
こちらから。
http://ameblo.jp/sangreal333/entry-11010850892.html




今日は、大日本帝国憲法の大切な精神の一つ、「天皇といえども国体の下にある」についてお話します。
我が日本は、天皇が祭祀を司り、天皇が統治する国です。これこそが我が国の国体です。

祭祀とは、自然や祖先に感謝し、これを神として崇めることです。我が国の神話を見れば、よくわかるように、我が国においては自然や祖先が神なのです。

そして、我が国全体の祭祀を司るのが天皇です。祭祀によって人々の和は保たれ、国家は安泰となるのです。

従って、統治もこの祭祀に基づいてなされなければなりません。祭祀に基づかない統治はその正統性を欠くものなります。祭祀と統治は車の両輪の如く、いずれが欠けても国家は立ち行かなくなります。

このように
天皇が祭祀に基づいて統治し、またしなければならないこと、これをもって「天皇といえども国体の下にある」と言います。

こうして、
いかなる法律も、命令も、我が国の国体を破壊するようなものは憲法違反となり、無効となるわけです。

そして、忘れてはならないのは、国体の下にあるのは、当然のことながら臣民(国民)たる我々も同じです。


実は、この問題と関わることとして、主権というものが存在します。

気をつけて頂きたいのは、主権という言葉には三通りの概念が存在といわれており、これらはそれぞれ全く違うものです。

主権という言葉は、1、国家の統治権 2、国家の独立性 3、国政についての最高の決定権を有する者または集団 を指すものとされています。

1と2の意味の主権は、国家である以上当然認められるものです。しかし、3の意味の主権は、大日本帝国憲法下においては認められるものではありません

なぜなら、先ほどからお話ししているように、我が国においては国体こそが国のあり方を決定する最高の規範であって、特定の誰かに国のあり方を決定する最高の権限を与えているわけではありません。たとえ天皇といえども、そのような権限はありません。「天皇といえども国体の下にある」とはそういう意味なのです。

従って、大日本帝国憲法下においては天皇に主権があった、天皇主権の憲法であった、というのは誤りです。

主権についての話は、また後日詳述したいと思います。

2011年9月22日木曜日

お神輿と地域の力

先週土曜日に女神輿担いできました。

みんなで同じ半被着て、担ぐお神輿。
力を合わせて重いものを運ぶ。
ちょっとサボると横からおばちゃんの喝が入り、「うるさいババア」 なんて陰口言いながらも言う事聞く若人(本当は女の子がババアなんて言っちゃダメですよ)。

そうやって町を練り歩く。
お神輿って社会の構造が詰まっていますね。

びっくりしたのは場所です。
中野のビル街のど真ん中でもちゃんとそういう事を続けているのです。
休憩所では近所の人が、水やおやつ、ご飯を用意して待っていてくれて、地域の力でこのお神輿は成り立っているんだなあと実感しました。

そして帰り道、青山に寄り道したのですが、そこでもお神輿の提灯が。

あのオシャレオフィス街青山でもちゃんとやってるのです。勿論企業とかの協賛がほとんどみたいですが、ちゃーんと続いている。

この商店街単位の集団がより集まって地域やより大きい自治体、都道府県、地方、国になるんですね。

今回私がこういった経験が出来たのは今年は担ぎ手が少なくて、お客さんから頼まれたからです。
世の中の大きなお祭りではお神輿が、担ぎ手が多すぎて取り合いになっていると聞きます。
そういう人たちはこういう小さな自分の地域の御輿を担いでいるのかな 。

こういう周りを大事にしてこそ、祭祀の醍醐味だと思いました。






下町の御輿の掛け声って本当にエッサホイサって言うのね。。
因みに私の故郷はセイヤッセイヤッ。

2011年9月15日木曜日

大日本帝國憲法 入門の入門

このブログでは、日本の自立と再生ということをテーマに、歴史や憲法、食料やエネルギーに関する記事を書いています。
今回は、ブログ「大日本帝国憲法入門」のリンクを追加しましたのでそのご紹介です。

内容は「入門の入門」というタイトルにふさわしく、とてもわかりやすく書かれています。
伊藤博文の憲法解説が基本になっているようです。
以下、一部引用します。



憲法とは、国体についての道徳、慣習、伝統などのことである。




では、説明していきます(^-^)/。


私たちは生まれてから家族の中で育ち、様々な人と関わりながら成長し、大人になっていきます。その過程で様々な道徳や慣習を学んでいきます。


このような道徳や慣習を学ぶことなしに、私たちは一人前になることはできません。私たちは一人一人、様々な異なる個性、異なる性格、異なる能力を持ちつつも、必ず家族その他周囲の人々によってこういったものを教えられて人となります。家族は私たちが人となる上で、非常に大切なものです。


更に視野を広げると、私たちが共通の祖先を崇拝し、その下に集ってきた国家というものがあります。


家族は道徳や慣習によって支えられ、そしてその集合体である国家もまた、道徳や慣習によって支えられている。


道徳や慣習というものは、誰か特定の偉い人が考えたものではありません。でも、だからこそ価値があるのです。なぜなら、人は必ず間違いを犯す生き物です。どんな天才でも、それを避けることはできません。まして、国家というたくさんの、様々な人間の利害がぶつかり合う空間において、それを調整し、まとめていく規範(ルール)を考えだすのは至難の業です。


だから、先人たちが行った様々な試みのうち、道徳や慣習として伝えられているもの、これらこそが尊い知恵であり、保守すべき規範なのです。


これは大切なことなのでしっかりと覚えておいて下さい(^-^)/




特定の人物や集団が考えだした規範よりも、先祖から継承してきた道徳、慣習、伝統などの方が優れており、これらを尊重しなければならない。




そして、このようなもののなかで、特に国家のあり方そのものに関わるような道徳や慣習、伝統などのことを「国体」あるいは「法」といいます。


これも大切なことですが、「法」と「法律」は全く違います。気をつけてください。これについては以前このブログで述べておりますので、そちらを参照して頂ければ幸いです。


私たちの先祖から相続した国体についての道徳、慣習、伝統など、これこそが憲法なのです。


さて、そんな大切な「国体」なわけですが、これは道徳や慣習ですので、文字で書かれたものではありません。このように、文字で書かれていない規範のことを不文法といいます。


もちろんそれでも構わないのですが、大日本帝国憲法制定時においては、そして現代においても憲法は多く成文化されていますので、これを成文憲法として制定したのです。このように文字で書かれた規範のことを成文法といいます。


ですから、はっきり言ってしまえば憲法は必ずしも成文法である必要はありません。不文法でも憲法として成り立ちます。


全文はこちらです。
http://ameblo.jp/sangreal333/entrylist.html

こんなことで潰されてたまるか!「希望の放射線除去・低減化法、実施中」

現代農業10月号に載っていたものです。

畑をいくつかの区画に区切り、表土を削って集めて一つの区画に積み、そこでヒマワリなどを栽培する。(放射性物質を吸収すると言われている植物を栽培する)
表土を削り取った区画と区画の間には溝を掘ってビニールのようなもので水がしみ込まないようにし、溝を流れた水をゼオライトを通して放射性物質を吸着させてから外に流す。放射性物質が流れ出さないようにするという工夫です。
完全ではなさそうですが、それぞれが工夫して頑張っています。
家庭菜園をやっている人も参考になるのではないかと思い紹介しました。
詳しくは現代農業をお読みください。

こちらで購入できます。
http://www.amazon.co.jp/dp/B005GQ7KBA/ref=cm_sw_r_tw_dp_LguCob1BX93XJ

2011年9月5日月曜日

農産物貿易の自由化が許されない理由

こちらからの転載。
http://www.ruralnet.or.jp/gn/201104/tpp.htm

農産物貿易の自由化が許されない理由

関 良基


自由貿易を礼賛する言説を新聞やテレビで振りまく経済学者はウソを言っている。百歩譲って工業製品の自由貿易は可能でも、農産物は自由化に適さない。農産物、とりわけ穀物の生産を海外に依存することは、生産者と消費者の双方に著しい打撃をもたらす。

WTOからTPPへ――米国の世界戦略

農産物と工業製品では財の性質が全く違う。工業製品に関しては、労働基準や最低賃金、環境基準の国際的な適正化、国際的な独占禁止などの諸条件が整いさえすれば自由貿易を認めることも可能であろう(現実はその条件が整っていないので認められない)。しかし農産物(とくに穀物)に関しては、いかなる条件においても決して自由貿易の原理を当てはめてはならない重大な理由が多く存在する。最大の理由は、農産物の不足が人間の生命を直接的に脅かすことだ。

WTO(世界貿易機関)においてすら、農産物は工業製品とは別のカテゴリーに分類され、農産物には暫定的に高い関税率が認められるなど、不十分とはいえいくばくかの配慮はなされている。しかるにTPPにおいては、農産物も工業製品も全く同列に扱って、例外なく関税を撤廃せよという。しかも輸入国側が一方的に関税の撤廃を強いられるのに、悪名高いアメリカの輸出補助金制度は不問にされる。WTOにおいてすら、アメリカの輸出補助金制度は不公正と非難され削減を求められているにもかかわらず、である。TPPにおいては万事米国主導でルールが作られるから、米国にとって都合の悪いテーマは除外されるのだ。

米国の戦略は、途上国の発言権が高まる中でWTOを自国に都合のいいようにコントロールできなくなってきたことから、TPPという自国主導の新たな枠組みの中で恣意的にルールを設定していこう、こういう目論見なのであろう。このような米国主導の身勝手な枠組みに丸裸で日本が飛び込むことは自殺行為以外の何物でもない。その自殺行為の推進を叫ぶ日本のマスコミが常軌を逸していることは、本誌の読者には多言を要しないだろう。

自由貿易を信仰する経済学のウソ

自由貿易を礼賛する新古典派経済学の枠組みでは、農産物も工業製品も同列に扱って論じ、自由貿易は貿易する双方の国の厚生水準を高めると主張する。これはウソである。百歩譲って工業製品は自由化可能な財であるとしても、農産物は自由化に適さない。環境面など多面的機能が損なわれるという点のみならず、農産物は需要面でも供給面でも、自由貿易には全く適さない性質を多く持つ。

数多くの論点の中で本稿では、農産物に対する需要特性が、貿易自由化に適さないことを明らかにしたい。通俗的なミクロ経済学(=新古典派経済学)の教科書は、貿易自由化が「消費者利益になる」と記述する。しかるに貿易自由化のメリットに関しては「これでもか」というくらいに記述されても、その何倍もあるデメリットに関しては全く記述されない。「新古典派経済学という学問は、『市場万能教』を布教するための、科学を装ったカルトだ」と言われる所以である。

農産物と工業製品の違い
――農産物は供給量のわずかな変化で価格が乱高下

農産物と工業製品とで大きく違うのは、価格が変化したときに需要がどの程度変化するのかという変化率である(需要の価格弾力性と呼ばれる)。

339ページの図には、2つの財の需要関数が書いてある。どちらかが農産物でどちらかが工業製品である。どちらがどちらか、少し考えてみていただきたい。

昨年後半から今年にかけて、穀物の供給不足の懸念によって2008年以来、再び穀物価格が急上昇している。工業製品はこのように急激に価格が乱高下をすることはない。これは二つの財の需要曲線の形が違うことに起因する。

――そう、垂直に近い(1)の曲線が農産物である。数量がわずかでも変動すれば、価格も大きく乱高下するのがわかるであろう。なだらかな(2)の曲線が工業製品である。

農産物(とりわけ穀物)の価格は、少し生産がダブついただけでも急落するし、わずかでも欠損が生じれば急騰する。人間の胃袋の大きさはほとんど変化しないので、価格が変化しても需要量に大きな変化は出ない。値段が高かろうが安かろうが、人間が必要とする食料の総量はほぼ決まっている。逆に言えば、需要曲線は垂直に近い急な傾きになる(=価格弾力性が低くなる)。したがって供給量のわずかな変動で価格が乱高下することになる。

それに対し工業製品は、食料と違って生きていくための必需品ではないので、価格の変動によって需要は大きく変化する。高ければ買わない、安ければ買われる量は増大するということになる。貿易を自由化すれば価格の低下によって伸縮的に需要が伸びていくので、製造業メーカーは大きな利益を得ることになる。

農産物の貿易自由化は生産者も消費者も苦しめる

生活必需品である食料はこうはいかない。貿易を自由化したところで国際的に農産物の需要量が急に大きく増えることはない。価格は急落するのに、需要は伸び悩み、結局苦しむのは生産者である。多くの農家が廃業に追い込まれた後、今度は供給が不足すれば価格が高騰し、消費者が苦しむ。とりわけ世界の貧困層を飢餓地獄に追い込む。安定的に供給することが何よりも大事な農産物にとって、この価格変動の激しさは、自由化の是非を問ううえで致命的な欠陥である。

価格が急落すれば、消費者は喜ぶが、農家が貧困にあえぎ生活できなくなる(今まさに日本の米農家がそうなっているように)。逆に価格が急騰すれば、農家は喜ぶが、今度は消費者の生活が破壊され、飢餓に至る(今まさに途上国の貧困層を直撃しているように)。この価格の不安定性は生産者と消費者の双方にとって莫大なリスクをもたらすのである。しかるに投機家にとっては、価格変動こそ一獲千金のチャンスとなる。ゆえに農産物市場には投機資金が流入しやすく、ただでさえ変動しやすい穀物価格をさらに乱高下させる。

ゆえに、農産物、とりわけ穀物においては、消費者と生産者の双方が著しい打撃をこうむることのないよう、国が介入して生産を調整し、価格を支持する必要があるのだ。

たとえ価格が下がっても飢餓のリスクは高まる

農産物貿易自由化論者は、自由化のほぼ唯一のメリットとして、食料価格が安くなり消費者の利益になるという主張をする。しかし、それは大きな間違いである。今後、日本、中国、インドなどの大消費国が穀物自給率を下げ、アメリカ、オーストラリア、ブラジル、アルゼンチンなど少数の大輸出国に穀物依存度が集中していけば、リスクは飛躍的に高まっていく。そのうちの一国でも不作になれば、穀物価格はすぐに高騰するようになる。その結果苦しむのは、先進国と途上国とを問わず、世界中の貧困層なのだ。

たとえば次のようなケースを考えてみよう。自由化の結果、30年間のうち28年は食料品の価格が自由化前の半分程度に安くなり、残りの2年間は価格が自由化前の3~5倍にも急騰したとする。価格の平均値を取れば、自由化後は30年平均で67~80%となり、平均値のみ見れば、今より安いということになる。経済学者は、「平均価格が下がったから消費者余剰は高まった」などというかも知れない。

しかし30年中28年間は利益を受けていたにせよ、残りの2年間で貧困者は食っていけなくなり、下手をすれば餓死に至る。その2年間で多くの人々の生命活動が停止に至れば、残りの28年間利益を受けていたとしても、そんなことは全く無意味であろう。農産物は安いときに購入して買い置きしておくことなどできない。これも工業製品と農産物の特質の大きな違いなのである。

メキシコ農業の教訓

2008年、多くの発展途上国において実際にこういうことが起こった。その悲劇は、今年もふたたび繰り返されようとしている。

メキシコのケースを見てみよう。メキシコの主食は古代マヤ文明以来トウモロコシである。トウモロコシの原産国であり、人類にトウモロコシという作物の恵みを与えてくれたのはメキシコの先住民族である。そのトウモロコシの母国には、1994年に発効したNAFTA(北米自由貿易協定、アメリカ・カナダ・メキシコの3カ国で締結された自由貿易協定)によって、アメリカから大量の輸出補助金付きトウモロコシが安値で流入するようになった。アメリカからの輸入トウモロコシは、NAFTA発効前の1992年には130万tであったが、2007年には790万tと6倍にも増加した。マヤ文明以来のトウモロコシ作地帯であるチアパス州では「NAFTAは先住民族にとって死を意味する」との声明を発した先住民族の反乱も発生した。

米国のシンクタンク・カーネギー国際平和財団は、2003年の報告書で、NAFTAはメキシコの製造業に50万人の雇用増加を生み出したが、逆に農業部門で150万人の雇用喪失をもたらし、国全体として雇用の増加にも賃金の増加にも結びつかず、多数の農民から土地を取り上げ、森林破壊、自給作物の衰退と輸出用商品作物への転換による化学物質汚染など、環境破壊を助長したと結論した。

メキシコでは、製造業の雇用は50万人増えているが、その分の雇用は米国で失われている。そして離農したメキシコ農民は結局、200万人に上ったと推定される。この中には流浪してアメリカに流入した者も多かったが、国境を越えると「不法移民」のレッテルを貼られた。アメリカはメキシコに「関税」という国境措置の撤廃を強いながら、その結果としての移民に関しては国境による差別を崩さない。

メキシコ政府は、国内生産者にこのような犠牲を強いてまで、米国の口車にのせられて「消費者利益」のために主食を米国に依存するようになった。しかしブッシュ政権の始めたトウモロコシのバイオエタノール化計画と、それにつけこんだ投機資金の流入によってトウモロコシ価格が高騰した2008年、今度はメキシコの消費者が深刻な栄養不足と飢餓に直面することになった。

失業の増加と賃金下落と農民の土地喪失と環境破壊と飢餓、これが農産物と工業製品の一律自由化の帰結である。農民のみならず、労働者にも雇用の不安定化と賃金下落という深刻な打撃を与えるのだ。この教訓はTPPには活かされようとしていない。このメキシコの教訓は日本にとって他人事ではない。

荒廃した農地は簡単に回復しない
失われた命は蘇らない

新古典派の経済学者は、「輸入食料の価格が高騰すれば、国内生産が再び競争力を持つようになるのだから、また国内で生産を再開すればよいではないか」と言うかもしれない。しかし、いちど耕作地が放棄され、農地が荒廃すれば、簡単に元通りにはなりはしない。仮に三年かけて生産が回復したとしても、その間に失われた命は蘇らない。新古典派は、タイムラグがなく生産が瞬時に調整され、また、あらゆる事象は可逆的であるという非現実的な仮定に基づいてモデルを構築している。実際には、とくに農業の場合、生産を再開するための調整には時間がかかるのであり、その間に生じる餓死は不可逆現象なのである。

(拓殖大学准教授)


日本は原発事故によって多くの農地を失いました。外国からの農産物の輸入が増えることになりそうです。日本に対して市場開放圧力が高まるかもしれません。これまでもあの手この手で日本市場を開放させようとする力が働きましたし、それを受け入れる、あるいは推進するような政府の動きがありました。

生活必要物質、食料、水、エネルギー資源、に関しては、自国の自給率を高めることは、国防上もっとも重要です。
政治が当てにならないと思ことも多いです。
どうやって身を守るか。
政治を当てにせずに何ができて、何を政治に求めるか。
真剣に考えて、やれることをやらなければならない時を迎えたと思います。

2011年9月4日日曜日

強い農業とは、命を支える農業とは何か。

以下リンク先は「現代農業」平成23年8月号に掲載されていたトピックです。
書き出したものなので数字表記、漢字等細かいところで原文とは違うかもしれませんがご了承ください。

TPP推進派の「新自由主義的震災復興」のシナリオとは

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ー強い農業はどっち?
TPP推進論者がよくいう「強い農業・漁業」とは何だろうとよく考える。今回の大震災は、はからずもその答えを明瞭に示してくれた。冒頭紹介した中村さん夫妻は、その後、本当に安全で消費者が食べてくれるものができるかどうか、不安を抱えながら耕し、タネを播いた。
同じく郡山市の三穂田地区で集落仲間と稲作生産組合をつくり、六〇haを経営する高田善一さんは五月、例年だと否応なく張り切る時期なのに、今年は何とも気合いが入らない、と悩みながらトラクタに乗っていた。秋、本当に食べられるものができるのか、何より放射性物質が降り積もった土地に作物を植えてもいいのだろうか、それを考えると、好きな酒も飲めない、仕事の後一杯やるのが仲間の楽しみだったが、あの三月十一日以来、誰もが飲もうといわなくなった、と語る。高田さんは稲作のほか乳牛を八頭飼っている。乳を搾るだけでなく、田んぼに入れる堆肥を手に入れるためにも牛は欠かせない。その牧場からもセシウムが出た。五月半ば、ぼくはふらっと彼を訪ね、作業場で待っているとトラクタで帰ってきた。牧草をすき込んできたのだという。「切ないですね」というと、「切ないね」といった。
それでもみんな耕し、タネを播き、田植えをした。なぜと高田さんに問うた。中村さんと同じ答えが返ってきた。「百姓だからね。休むと百姓でなくなる」。
タネを購入し、肥料をまき、燃料代を消費して機械を動かす。自分の労働力は計算に入れなくても結構お金をつぎ込んでいる。そうして作った作物が食べられるものになるか、ぼくにもわからない。それでもみんなタネを播いた。
こんなことが効率と利益を上げなければならない企業農業にできるのか。もとが取れないかもしれないリスクを負う企業などあり得ない。小さい農家は別の論理、別の価値観でつくり続け、食べる人のいのちを支えてきた。大震災後の今もそうしている。消費者にとって、都市の人間にとって大切なのは、そんな小さいけれど、きちんとつくってくれる農業なのだということがわかってほしいと中村さんや高田さんと話しながらつくづく思う。TPPが潰すのは、こうした「強い農業」なのである。大震災の復興過程の中で、それをまったく別の「強い農業」に置き換えようという動きが日ごとに強まっている。
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引用以上

大野氏の言う「強い農業」「命を支える農業」とは、小さい農家の価値観、論理とは何でしょうか?

大きな会社で限られた仕事を細分化、専門化して作業していると、全体が見えなくなりがちですね。
自分の仕事が最終的にどうなるか見届けない事も多々あります。

様々な仕事を細分化、専門化、効率化して都会の生活は成り立っています。

エネルギーに関してもそう。原発は電気を作るところと使うところに大きく分けるという構造ですね。

今回の震災は、図らずしもその問題点をあぶり出してくれました。
お金があっても、必要なものが手に入らない、そういう状況は現代日本でも起こり得ること、頭ではわかっていても改めて実感した人は多かったのではないでしょうか。

自分達の手の届く範囲で、生活に必要なものを入手出来る構造が重要です。
百姓とはよく言ったもので、百の事が出来る人でないと百姓は務まりません。

利益を効率よく上げる農業ではなく、そして何も農家だけの話ではなく、一人一人がある程度完成された百の事を出来る地域づくりが、強い農業の基盤なのではないかと思いました。