2011年7月12日火曜日

文部省が編纂した『国体の本義』

『国体の本義』は昭和13年に当時の文部省が、一流の学者たちを集めて編纂した日本の国柄を書いた書物です。師範学校の必須科目に取り入れたために、これを学ばなければ教員にはなれなかったそうです。
教育に関心がある方は現在の教育指導要領などと比較して読むと面白いかもしれません。
日本の「典」や「憲」などに出てくる文や言葉が現れていので、資料室 - 日本の「典」と「憲」も合わせて読んでいただければ、さらに深く読めると思います。
この時すでに「個人主義の行き詰まり」を指摘しているのが興味深いです。
この『国体の本義』は占領統治期には発行が禁止になった書物の一つ。そんなこともあって「個人主義の行き詰まったまま」今に至るのではないでしょうか。
日本を保守するということは国体を護持することですから、ここに書かれていることは知っていた方がいいかもしれません。




『国体の本義』編纂の趣意

「国体の本義」

一、本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した。

一、我が国体は宏大深遠であつて、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことを懼れる。

一、本書に於ける古事記、日本書紀の引用文は、主として古訓古事記、日本書紀通釈の訓に従ひ、又神々の御名は主として日本書紀によつた。



「国体の本義」緒言

我が国は、今や国運、頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途、弥々多望な時に際会してゐる。
産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。
夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。
文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ) 生ける験(しるし)あり 天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。
明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。

併しながら、この盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。
今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影、相共に現れた感がある。
併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。
我等は、よく現下、内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。


 現今、我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。
抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。
これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。
従つて、そこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。
かかる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て、我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於(おい)て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。

我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。
かかる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。
然るに、これに対して伝統復帰の運動が起つた。
それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。
蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。
かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。
然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、ここに進むべき確たる方向を見出した。
然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。
即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。

抑々、社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於ては、すべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。
個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。
即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。
久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて、益々欧米文化の摂取・醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。

即ち、今日、我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。
而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於て、その打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。
ここに我等の重大なる世界史的使命がある。
乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。



全文はこちらです
http://www.j-texts.com/showa/kokutaiah.html

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