こんばんは。今日は予定を変更して、「女系天皇論」として新たに噴出しつつある、国体破壊の「天皇主権」説、「国民主権」説を取り上げます。
「天皇主権」説、「国民主権」説そのものについては、このブログでも何度もお話いたしましたが、これらの説はいわゆる「女系天皇」論と絡めて取り上げられていることが多いようですので、その危険性についてもう一度検証したいと思います。
1. 「天皇主権」説、「国民主権」説とは
「天皇主権」説とは、天皇に、いわゆる「主権論」にいう「主権」が属する、という説です。
同様に、「国民主権」説もまた、「主権」が国民に属する、という説です。そしてこの両説の危険性は、「主権」という概念に存在します。
「主権」とは、ある国家のあり方、すなわち国体を最終的、かつ完全に決定することのできる権利を意味します。
これまでこのブログをお読み頂いていた方はご存知と思いますが、このような「主権」は到底認めることはできません。国体というものは護持すべきものであり、またそれは誰か特定の人物や集団によって決定されるものではなく、無数の人々の様々な営みの中から培われてくるものであって、それは道徳や慣習、伝統や文化などにより規範づけられるものです。そして、このような国体を規範づける道徳や慣習などのことを不文憲法(法)といいます。
不文憲法(法)とは国体を規範づけるものであり、国体を改変することは誰にもできません。従って、国体を改変(はっきり言えば破壊)する権限である「主権」は存在してはならないものなのです。
よって、国民に「主権」が存在するという「国民主権」が不当であり、天皇に「主権」が存在するという「天皇主権」も同じく不当であると言わねばなりません。あらゆる「主権論」は国体破壊の謬説です。詳細は入門の入門「法の支配(立憲主義)」をご覧下さい。
2. 女系天皇論とその危険性
さて、いわゆる女系天皇論が国体破壊の謬説であること、女系天皇と女性天皇の相違、などについては「皇位の男系継承と法」において解説致しました。女系天皇が我が国の歴史上ただの一人も存在せず、我が国において男系継承が皇位継承における不文憲法(法)であるだけでなく、その性質上それが不文憲法(法)中の最高法規であることはいうまでもありません。
いわゆる女系天皇論においては、かつては女系天皇が存在したと主張しています。そして、その中では女系天皇として挙げられている歴代天皇陛下もいらっしゃいますが、全てそのお父上方は皇族出身であり、女系天皇が存在するなどという説は完全なウソです。
このような不文憲法(法)中の不文憲法(法)といえる「皇位の男系継承」を否定し、国体を破壊するものが女系天皇論です。
「女系天皇論」は我が国の国体を破壊し、皇統を断絶せしめる特定のイデオロギーを持つものです。なぜ、このようなものが生まれ、どうすれば根絶できるのでしょうか。
我が国の国体を表す不文憲法(法)というものをしっかり護持していかなければ、我が国は名称こそ同じ「日本」でも、あるいは「天皇」「皇室」が残ったとしても、それはもはや全く違うものになってしまうのです。
左翼思想というものは、実に巧みに己を偽装し、どのような名称を借りてでも、己の目的を実現しようとします。「名を捨てて実を取る」とはまさにこのことです。「天皇」「皇室」などの言葉を用いていても、その思想の内容が左翼思想であれば、それは左翼思想に他なりません。
「天皇」「皇室」などの言葉をちりばめた、しかし内実はそれらに対する敬愛の気持ちは一切なく、むしろ、申し上げるも恐れ多いことながら天皇陛下や皇室を傀儡とし、国体を破壊しようという思想、それこそが「天皇主権」であり、「女系天皇論」はその一種として噴出してきているのです。
このような思想の猖獗の原因の一つには、我々があまりにも、我々の国体というものを意識せず、何でもかんでも新しいものはすばらしいもの、古いものは悪である、というルソー的理性崇拝に浸ってしまったからではないでしょうか。およそ国家というものには変えてはならないものがある、神聖な要素がある、そういう認識を持てば、数千年にわたる男系継承という「法」を易々と破壊しようなどという気持ちなど、夢にも浮かんで来ないはずです。
女系天皇論には、このような祖先から継承したものは神聖なるものであり、祖先を崇拝し、感謝しようなどという気持ちが全く見られません。
「古いものにとらわれるな、因習を打破しよう」このような言葉は一見進歩的で美しく聞こえます。世の中には確かに、意味のない陋習も存在します。しかし、それを天皇や皇室の如く、我が国の国体の中心にまします存在に対して考えを及ぼすほど、危険なことはありません。
神聖なるものに対し、少数の学者や評論家らがあれこれと考えを巡らし、ああだこうだと結論をつけることほど身の程知らずなことはあるでしょうか?まさにそれこそは、こちらは「国民主権」以外の何ものでもないでしょう。まさにそれこそは、ルソーがやったこととどう違うというのでしょう。
我々が今一度、我が国の国体を護持しようという保守思想に立ち返ること、すなわち、我が国の国体というものを再確認し、意識するようになれば、このようなものが出現する余地などなくなるのです。
3. 「承詔必謹」の正しい解釈
さて、このように「女系天皇論」は学術的にも、一切の正統性、論拠を否定されたわけですが、『十七条憲法』には「承詔必謹」という言葉があります。
「詔を承りては必ず謹め」とは、しばしば、天皇陛下のご命令であれば、如何なることであろうとも承服せねばならない、というように解釈されることがあります。
確かに、恐れ多くも天皇陛下の詔であれば、それは謹んで承らねばなりません。当然のことです。ただし、これまで述べてきたように、法は「天皇といえども国体(に関わる不文憲法)の下にある」とするのです。申し上げるも恐れ多いことながら、万が一天皇陛下の詔が「不文憲法(法)」にもとるような場合には、これをお諌め申し上げるのが臣下たる者の責務です。
「女系天皇論」においては、「皇室の事柄は皇室ご自身がお決めになるべき」として、皇位の男系継承か女系継承かを、恐れ多くも天皇陛下や皇族方のご決断に委ねようという意見も見られます。
この意見は、皇室のことは国民が容喙すべきではなく、皇室ご自身がお決めになるべきであって、その結果がいかなるものであろうと承服すべきである、と「承詔必謹」を引用します。
しかし、そもそも皇位継承については男系継承という法がすでに存在しているのです。法を改変(破壊)する権限は誰にもありません。改変しても無効です。従って、何も「お決めになる」必要などないのです。恐れ多くも天皇陛下におかせられては皇位の男系継承という法に則り、またそれを具体化した皇室典範に則り皇室の事柄をお決めになるのみであって、それを我々臣民は謹んで承るべきなのです。
「女系天皇論」の解釈する「承詔必謹」からは、やはり国体についての尊重が完全に抜け落ちています。まるで我が国の天皇を、支那の専制君主の如き、憲法(国体)なき国家の君主と同視するかのようなとんでもない解釈であるとしかいいようがありません。まさしく、天皇主権説そのものです。
このように、「女系天皇論」にはその表向きの主張とは全く裏腹に、支那の専制君主論の如き解釈や、ルソー的理性崇拝など、我が国の国体とはおよそかけ離れた思想的背景が大いに見られるのです。こんなものは、到底我が国のものではありません。歴史的にも、精神的にも、文化的にも我が国のものとはかけ離れたもの、それが「女系天皇論」です。
これだけではありません。「女系天皇論」の「承詔必謹」には、更に大きな危険性があります。
仮に、恐れ多くも天皇陛下や皇族の方々が、皇位継承についてご意見を表明されるようになったとしましょう。果たして、マスメディアによって伝えられるその「ご意見」は、天皇陛下や皇族方の「真意」を正確に伝えたものとなるでしょうか!?
これについては、私は明白に、「否!」と言うことができます。日頃報道される政治家などの発言についての報道の仕方を見ていても分かるように、時にその一部分を切り取り、時に独自の解釈を交えて報道するなど、発言というものは如何ようにもねじ曲げて報道することは可能なのです。
このような状態で、恐れ多くも天皇陛下や皇族方が何らかの発言をなさった場合、それが様々な形で利用されてしまうことは、もはや火を見るより明らかです。
そしてひいては、皇室そのものが皇位継承を巡る論争に巻き込まれるというが如き、何が何でも避けねばならない事態を引き起こさないとも限りません。そのようなことは絶対にあってはならないのです。
「天皇は統治すれども親裁せず」です。この不文憲法(法)は天皇主権をはっきりと否定し、併せて恐れ多くも天皇陛下や皇族方がこの種の論争に巻き込まれるような事態を防ぐのです。
このブログはこちらからの転載です → 大日本帝国憲法入門