2011年11月16日水曜日

大日本帝国憲法入門(7) 臣民の権利と義務(総論)

 こんばんは

 今日から、「第二章 臣民権利義務」の解説に入ります。各条文の解説の前に、大日本帝国憲法の「臣民の権利」(国体の下の自由)について、簡単にお話したいと思います。



(1)国体の下の自由(臣民の権利)


 大日本帝国憲法においては、「第一章 天皇」の次に、この「第二章 臣民権利義務」が掲げられています。これはすなわち、我が国の国体が民を「大御宝」として愛し、その幸福を願うものであることの現れです。歴代の天皇陛下は常に私たちのためにたゆみない祈りとご慈愛を注がれていらっしゃいました。

 私たち日本人は、数千年にわたるその営みの中に、皇室を中心とする天壌無窮の国体に基づく道徳や慣習などを築き上げてきました。これらの道徳や慣習などは非常に多様であり、家族や地域から始まって国家のあり方を規定するような、国体に関わる規範まで及んでいます。これらの中で、特に国体に関わる道徳や慣習などのことを憲法と呼ぶ、ということも何度もお話しました。大日本帝国憲法は、それらの不文の規範の内、特に成文化すべきものを取捨選択したものなのです。

 従って、憲法において保障される自由(権利)というものを考えるに当たっては、道徳や慣習などの最小単位である家族を重視することは不可欠です。家族こそは道徳の学校といえるでしょう。

 自由とは、人が生きる上での至上の価値です。しかしながら、一方で自由とは、その人が生きる国家において、如何なる道徳や慣習が通用しているのか、によって規定されてきます。自由は道徳や慣習によって守られ、支えられて、初めて有効になるのです。

 新しいものが全て悪いというのではありません。しかし、国家のあり方というものは数千年もの積み重ねの上にあるものです。如何なる英雄のリーダーシップや、天才的な学者の思想も、歴史の中に生まれ、日々を営み、その生を終えていった無数の名もなき人々によって培われてきた道徳や慣習や伝統に勝るものではありません。

 このように、道徳や慣習などが支える国体の下において保障される自由が、国体の下の自由です。そしてこれらは、『日本国憲法』に列挙されている「基本的人権」とは本質的に全く異なるものです。
 
 道徳や慣習、伝統を否定するところに自由は存在し得ません。かつて、フランス革命やロシア革命などでは、従来の道徳や慣習などを否定し、一から「理性」に基づいて新しい道徳と国家を建設する試みが行われました。しかし、それらはあらゆる悲惨と虐殺、暴政の末に自由は圧殺され、狂信とテロ、独裁が横行する悲惨な結果に終わったのです。

 社会科の教科書などでは、特にフランス革命はすばらしいものとして賞賛する論調のものもあります。標語として「自由・平等・博愛」などが掲げられた、などの記述をご覧になった方もおられるでしょう。

 しかし、そのような美辞麗句とは裏腹に、革命の名の下に行われた非道は眼を覆うばかりのものです。一体、なぜ「理性」を掲げた人々がこのようになってしまったのでしょうか?

 「理性」「合理主義」の尊重は、従来の道徳や慣習の否定へとつながっていきます。「革命のためなら如何なることも許される」ということになるのです。すなわち、革命に反対する者には、自由などを保障する必要はない、彼らには何をやっても許される、というようになるのです。

 つまり、「理性」「合理主義」というものは、自然科学の分野では大いに力を発揮し、有用でしょうが、それをそのまま国家に当てはめ、「理性」「合理主義」の力で国家を建設する、あるいは運営するというのは、非常に危険であり、やってはならないことなのです。

 しかし、その「理性」「合理主義」による社会改造を提唱したのがルソーであり、その思想はフランス革命を引き起こした後も社会主義や共産主義、国家社会主義などへと発展していきました。

 これらの思想の信奉者らによって引き起こされたロシア革命、第2次世界大戦、支那の国共内戦など、その犠牲者は膨大なものです。

 現代は、共産主義による革命が頻発するような時代ではありません。では、このような思想は死に絶えたのでしょうか?

 とんでもありません。「理性」「合理主義」信仰は、その名を名乗らず、あるいはその名を変えて、狡猾に我々の社会に浸透しようとしています。現在は、左翼は武力による革命ではなく、教育や宣伝によって我々を左翼思想へと巧みに誘導しているのです。我々は、何もせず座っているだけでも、知らず知らずのうちに左翼思想の信奉者にさせられています。

 ルソーら「理性」崇拝者らは、従来の道徳や慣習の下で保障されてきた自由を否定するため、それらから解放された「新しい自由」を観念せざるをえませんでした。これが「基本的人権」です。「基本的人権」は、「理性」崇拝、つまり左翼思想の源流に基づくものなのです。



(2)「基本的人権」は「理性」崇拝の左翼思想

 
 「基本的人権」とは、「臣民」あるいは「国民」の権利ではなく、国家から「解放」(これは左翼用語ですなわち国家を否定、破壊)された単なる「人」の権利を意味します。すなわち、従来の道徳や慣習、さらには国体を否定、破壊することを前提に観念されています。従来保障されてきた自由を否定、破壊するということなのです。「基本的人権」の保障される社会は、自由の消滅した全体主義社会です。

 国家から「解放」(国家を否定、破壊)された、そして道徳や慣習を破壊されたバラバラになった「個人」は強力な暴力に屈せざるを得ません。かくして革命による新国家は全体主義(ファシズム)社会となるのです。

 しかし、このような「基本的人権」の危険性を一言も教えないどころか、あたかも「基本的人権」が保障されなければ自由は消滅するという、事実とは全く逆の悪質なプロパガンダが公然と行われています。左翼思想に偏向した教育を一方的に押しつけている、これは洗脳に他なりません。

 我々は、断固として「基本的人権」を排斥、拒絶し、「国体の下の自由」へと回帰せねばなりません。



(3)「平等主義」も左翼思想

 
 ここでいう「平等主義」とは、法律上、人を公平に扱うということではありません。法律上、人を公平に遇するのは正当なことです。

 これに対して、「平等主義」とは、人の元来有する個別の違い(身分・性別・能力・財産など)の差異を認めず、またはこれらを均等化しようとすることです。例えば、『日本国憲法』においては第24条において、「両性の本質的平等」という文言があります。これは、男性と女性は「本質的」に同じである、または国家権力で無理やり同じにしてしまう、ということなのです。

 家族の根本要素は男女の結びつきです。古事記や日本書紀にみえる「国産み」も、伊耶那岐大神と伊耶那美大神の夫婦によって行われたように、この日本の誕生にも男性と女性の存在は神聖な意味を持ちます。しかし、国家を破壊する革命を指向する左翼思想においては、道徳や慣習の学校である家族は邪魔なものでしかありません。左翼思想が家族からの「解放」(家族破壊)を叫ぶのは、このような意図があるのです。

 
 次回は、第18条からの各条文の解説をしていきます。


 このブログはこちらからの転載です → ブログ『大日本帝国憲法入門』

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