2011年11月16日水曜日

大日本帝国憲法入門(10)国体護持は臣民の責務である(ΦωΦ)

 こんばんは。(ΦωΦ)

 今日は、第26条から解説致します。以下の条文に定める国体の下の自由は我々が国体を護持する上で欠くことのできないものであり、いずれも自由なき左翼全体主義国家においては保障されていないものばかりです。



 第26条 日本臣民ハ法律二定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルルコトナシ

(口語訳)日本国の臣民は法律に定めた場合を除いて、信書の秘密を侵害されることはない。


 この条文は、いわゆる通信の秘密を定めたものです。各人が自由な活動をするにおいて、通信の秘密が保障されていることは必須であり、これが保障されない社会は自由のない全体主義社会であることは明らかでです。

 信書とは一般に手紙であり、ある人が他の人に当てて出した手紙に書かれている事柄の内容、または誰が誰に宛てて出したか、などその手紙に関わる一切の事項が秘密とされる、ということなのですが、現代ではもちろん、手紙だけでなく電話やメールの他様々な通信手段がありますので、これら全てを含むものとしてこの条文はひろく通信の秘密全てを包括するものと解釈すべきでしょう。

 いわゆる、通信に関するプライバシーの原則を定めたものというわけです。この条文に関しては、上述の如く現代の事情に即するように改正が必要かもしれません。



第27条 1 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵ルルコトナシ
     2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル

(口語訳)1 日本国の臣民は自分の所有権を侵害されることはない。
     2 国家のために必要があり、やむをえずその所有権を制限しなければならないときは、法律の定める手続きに従って行わねばならない。


 各々の財産が勝手にわけもなく没収されたりするようなことがあれば、自由な発言や行動もできません。財産権の保障こそは、自由の保障された国家であることの最大のアイデンティティーです。一般的に、財産権の保障の度合いで、その国の自由度が測られるといえます。

 但し、どうしても国家のために必要があり、特定の人の財産を利用せざるをえないことがあります。公共事業や戦争の場合などがそうですね。でも、このような場合でも、法律で定められた手続きに従い、公正に行わねばなりません。



 第28条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス

(口語訳)日本国の臣民は国家の秩序を乱すことなく、臣民の義務に背かない範囲内において、信教の自由を有する。


 様々な宗教が存在し、そしてそれは時として争いの元となるのは、十字軍や三十年戦争など、特に西洋の歴史に照らせば明らかです。そして、現実に国家の中においてそれらが併存している以上、我が国の国体に害を与えることのない範囲内で、それらを保護していくことも必要です。こうして、この条文は、各人の信じる宗教と国家の秩序のバランスを取ったものであるといえます。



 第29条 日本臣民ハ法律ノ範囲内二於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

(口語訳)日本国の臣民は法律に定められた範囲内で言論や出版、集会や結社の自由を有する。

 
 財産権の保障と並ぶ、国体の下の自由の根幹をなす重要な権利である表現(言論)の自由を定めた条文です。

 前回もお話しましたが、各人が自由に自分の意見を表明し、デモや集会などに参加することは自由な国家を保持していく上で必須のものであり、我が国の国体を護持する上でも絶対に欠くことのできないものです。

 国体の護持は、政治家など一部の人たちに任せておけばよいものではありません。古来、我が国は名もなき優れた先人たちの弛みない努力に依って支えられ、発展してきました。我が国の国体は、英雄や一握りのエリートの指導のみによるものではなく、このような勤勉で優れた精神を持つ名もない庶民の努力によって支えられているのです。

 従って、国体護持は我々臣民の責務であります。表現の自由こそは、我々臣民が我が国の国体を守るために様々な活動をしていくための武器として、非常に重要なものであり、これが保障されない国家は自由のない全体主義国家であるといえます。



 第30条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別二定ムル所ノ規定二従ヒ請願ヲ為スコトヲ得

(口語訳)日本国臣民は適切な礼儀を守り、別に定める規定に従って請願をすることができる。


 請願権を定めたものです。自分の政治的な意見を直接帝国議会などに対して表明できるというもので、第29条の表現の自由を補完するものです。



 第31条 本条二掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ

(口語訳)この章に掲げた各条文は、戦時や国家事変の場合に天皇大権の施行を妨げるものではない。


 この第二章は国体の下の自由を成文化したものであり、従って国体が危機にさらされる場合において、それを護持する上で必要な限度において制約を受けることがあります。天皇大権とは、国体を護持するために天皇が各統治機構の協賛や輔弼を受けて行使する諸般の措置です



 第32条 本章に掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律二抵触セサルモノニ限リ軍人二準行ス

(口語訳)本章に掲げた条文は陸海軍に関する法令やその規律に抵触しないものに限って軍人にも適用される。


 当然のことですが、軍人も臣民であり、よって憲法が保障する国体の下の自由を享有することはいうまでもありません。

 しかし、その職務の性質上、例外的にその他の臣民よりもその自由を制限されることがあることもまた、やむをえないところです。本条文はその軍人についての適用例外を定めたものです。



 次回は、第三章 帝国議会 の解説に入ります。(ΦωΦ)



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大日本帝国憲法入門(9)自由権について(ΦωΦ)

 こんばんは(ΦωΦ)

 今日は、国体の下に認められる様々な自由についてお話します。

 自由(権利)はいくつかに分類することができます。ここでは特にその根幹をなす3つのジャンル、精神的自由と人身の自由、そして財産権の保障について説明します。



 1 精神的自由

 私たちは一人一人が異なった性格、能力などを有し、そしてそれを生かして働くことで国家に貢献しています。このような一人一人の働きによって国家は興隆し、国体は保守されます。

 国体の保守にとって、一人一人が自分の能力に応じてそれを発揮し、自由にそれを発展させて努力していくことが大切なことは言うまでもありません。各人はその自由な競争によって、己を幸福にし、ひいては国体をも強固にしていくのです。

 このような各人の自由な競争による国体の保守のためには、その能力を存分に発揮する環境が必要です。ここに臣民はその能力を発揮するべく、様々な精神的自由を保障されるのです。

 例えば、第29条では前回もお話した「言論の自由」を定めています。これは精神的自由の中でも最も重要なものです。人は自分の頭で様々なことを考え、学び、それを様々な場で生かすことで国家に貢献します。自由に物事を考え、発表し、それを仕事に生かし、時には時の政権を批判するようなことが保障されていなければ、人は己の能力を伸ばしていくことはできず、国家は沈滞し、また批判を受けない政権は傲慢に、専断的になっていくでしょう。これこそは国体破壊につながる恐るべき事態です。

 そこで、大日本帝国憲法においては言論の自由の他、いくつかの精神的自由を成文化して保障し、もって国体の護持を図っているのです。



 2 人身の自由

 しかし、いくら自由が保障されているといっても、例えば時の政権を批判したばかりに何の罪もないのに言いがかりをつけられ、有無を言わせず逮捕され、有罪とされてしまった、というのでは話になりません。それでは、いくら言論の自由があるといっても何の意味もないことです。

 そこで、これをカバーしているのが人身の自由です。第23条では逮捕されたり処罰を受けるなどの場合には、必ず法律に定めた手続きを官憲の側が踏んでいなければならない、ということを定めています。証拠もないのに逮捕したり、裁判で有罪にしてはいけません、ということです。英米法ではこれを「適正手続の原理」といいますが、大日本帝国憲法も同様の事柄を定めています。

 このようにして、時の政権が臣民の自由を奪って好き勝手なことができないように、様々な工夫が凝らされているのです。



 3 財産権の保障

 更に、人が暮らし、そして自由に考え、活動する上で欠かせないのがその財産です。財産があってこそ人は安定した生活を営んでいくことができます。そして、考えてみて下さい。もしも時の政権が、好き勝手に気に入らない者の財産を没収できるのであれば、人は自由に物を考えたり、発言したり、政権を批判したりできるわけがありません。

 こうして、国体を保守していくためには臣民が各々の財産権を保障され、もしもやむを得ず没収するには、法律に定められた手続きを踏んでしか没収することはできない、とされているのです。



 4 自由権の保障のない国は、全体主義国家

 以上、お気づきになったかもしれませんが、これらの国体の下の自由こそ、国体を護持していく上で必要不可欠なものであるとともに、いわゆる全体主義(社会主義・共産主義や国家社会主義など)の国家においては保障されていないのです。

 全体主義国家においては、統治する者やグループの意思や命令こそが法律です。そこでは道徳や慣習などは悪しきものとして顧慮されません。立憲主義(法の支配)は存在しないのです。統治者やグループの意思に全国民が従うことに価値が置かれ、それに従わない国民には自由や権利はないものとして扱われてしまいます。

 18世紀のフランス革命から、20世紀においてはファシズムや共産主義により、そして現在に至るまで、全体主義国家は自国民の自由を奪い、他国をも侵略し、圧政を敷いています。

 我が国の国体はこれらの諸国とは異なり、古来の立憲主義を今に伝えてその自由を大日本帝国憲法に成文化しています。

 



 第22条 日本臣民ハ法律ノ範囲内二於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス

(口語訳)日本国の臣民は法律に定められた範囲内で、居住と移転の自由を有する。


 人が様々な活動をしていく上で、その居所を変え、自分の望む場所に住まうことは必要になってきます。この条文は、それまでの時代において一定の制限を受けていた居所の変更やその選択の自由を、法律の制限の下に原則として自由化することを規定したものです。



 第23条 日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ

(口語訳)日本国の臣民は法律の定めによらないで、逮捕・拘留・裁判・処罰を受けることはない。


 人身の自由を定めたものであることは先ほどお話しました。法律に従って逮捕や裁判などが行われなければ、人は自由に生活していくことはできません。自由を重んずる国家と全体主義国家とを分つ、非常に重要な規定です。例えば、逮捕時には原則として逮捕状が必要である、という法律はこの条文に基づきます。



 第24条 日本国臣民ハ法律二定タメル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権利ヲ奪ハルルコトナシ

(口語訳)日本国の臣民は、法律に定められた裁判官による裁判を受ける権利を奪われることはない。

 
 前条と同様の趣旨で、裁判や判決も法律に従って行われなければならず、好き勝手にされてはならない、ということです。自由を保障する上で、欠くことのできない重要な規定で、第23条とともに適正手続の原理を定めたものです。例えば、刑事裁判においては被告人は国選弁護人を依頼できる、という法律はこの条文に基づきます。



 第25条 日本臣民ハ法律二定メタル場合ヲ除ク他其ノ許諾ナクシテ住所二侵入セラレ及捜索セラルルコトナシ

(口語訳)日本国の臣民は、法律に定めた場合を除いては、その許可なく住居に入られ、捜索を受けることはない。


 これは刑事事件の被疑者とされた場合などに、証拠などを押収するため住居に入るには、例えば捜索令状を必要とする、などの法律に定めた手続きによらなければならない、という趣旨です。勝手に人の家などを捜索され、所有物を没収されてはその人の財産権などが侵害されることになります。そのようなことを防ぐ趣旨の規定です。


 
 次回は第26条から解説します。


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大日本帝国憲法入門(8)〜 ネットで政権批判を禁じる法律が制定されても、帝国憲法では無効 〜

 こんばんは(。・ω・。)

 今日から、「第二章 臣民権利義務」の解説に入ります。



(1)「法律の範囲内」の保障とは 

 ~ ネットで政権を批判するのを禁じる法律を制定しても、帝国憲法では違憲無効 ~


 若干、法律学の専門的な話になってしまうのですが、少しお話しておきます。初めてお読みになる方で、「法」と「法律」の違い、立憲主義(法の支配)の意義をご存知でない方は、「入門の入門 立憲主義(法の支配)」などを参照して下さい。

 これからお話するように、第二章は様々な権利を保障しています。そして、これらの権利の多くは、「法律の範囲内で」あるいは「法律に定められたところにより」保障される、などとされています。
 
 つまり、例えば、憲法第29条で言論の自由を保障する、と規定されていても、では具体的にどのようなものが対象になるのか、どのようなやり方で言論を発表しても許されるのか、など、その言論の自由の範囲は法律によって決められるのだ、ということなのです。

 さて、ここで問題が生じます。例えば、「言論の自由」にはインターネットでの言論は含まれない、という法律ができたならばどうでしょうか?つまり、新聞やテレビ、雑誌などで時の政権を批判するのは構わないが、インターネットで政権を批判することは「言論の自由」に含まれない、とされてしまうわけです。

 もしもこのような法律ができたならば、多くの国民にとって、政権を批判する自由はなくなってしまいますね。後に詳述しますが、政権を批判する自由というものは、為政者が公正な政治を行う上で一定の範囲において保障されるべきです。国民から一切批判を受けない政権などというものは緊張感を失い、腐敗する恐れもあります。その意味では「言論の自由」は憲法が保障する権利の中で最も大切なものです。

 そう考えるならば、確かにテレビや新聞というメディアも重要ですが、現代社会においては、インターネットは大変重要な位置を占めるに至っていることはいうまでもありません。テレビや新聞でなかなか取り上げられることの少ないような意見も、インターネットでは手軽に発表できます。そうであれば、インターネットでの政権批判も、「言論の自由」で保障されるべきです。

 しかし、第29条は、「法律の範囲内において」言論の自由を保障する、としているのです。では、法律でどのように決められても、どうすることもできないのでしょうか?

 行政法学には、「法律の留保」という学説があります。これは、オットー・マイヤーというドイツの学者が唱えたものですが、「法律の範囲内で保障される」とされている「権利」の範囲は、どのようにでも法律で決めることができる、という説です。つまり、この考え方に従えば、インターネットで政権批判をするのを法律で禁じるのは憲法違反ではない、ということになります。

 しかし、この学説は我が国においては到底認められません。そもそも、立憲主義(法の支配)の下においては、国体に関わる重要な不文の規範(法)に反するあらゆる法律、勅令、命令、条約などは違憲であり無効となるのです。

 我が国においては古来より、人々の様々な表現活動や時の政権に対する批判も一定の範囲で行われ、これらが国家の安定に寄与してきたことは明らかです。「言論の自由」という言葉などはなかったとはいえ、これらが国体の護持にとって重要な機能を果たしてきたと言えるでしょう。よって、「言論の自由」は国体に関わる不文の法の一つであると言えます。

 従って、いくら「法律に定めた範囲」でしか保障されないと条文上は定めていても、国体に関わる不文の法の趣旨を損なうような法律は、憲法違反であり無効である、とされます。オットー・マイヤーの「法律の留保」説は立憲主義(法の支配)に反する学説であり、我が国では認められません。

 立憲主義(法の支配)の考えからは、現代社会においてはインターネットは大きな役割を果たしており、そこでの政権を批判する自由は「言論の自由」に含まれ、これを除外する法律は無効である、となります。

 以下、各条文の解説に入りますが、ここでの「法律の定める」あるいは「法律の範囲内」はこのような意味を持っていることを頭に置いてお読み下さい。
 


(2)臣民の権利と義務
 
 
 第二章 臣民権利義務


 
 第18条 日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル

(口語訳)日本国の臣民であるという要件は、法律によって定める。


 どのような人間が日本国の臣民といえるのか、は、法律によって定めることができます。ただし、法律で定めればどのように定めようと勝手だ、というわけではありません。(1)でお話したように、臣民は国家の根幹であり、その範囲に関わる規範は国体に関わる規範であるといえます。

 従って、その定め方によっては憲法違反で無効となります。



 第19条 日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格二応シ均ク文武官二任セラレ及其ノ他ノ公務二就クコトヲ得

(口語訳)日本国の臣民は法律や命令の定める資格に応じて公平に文武の官僚に任命され、そしてその他の公務に就くことができる。


 公務に就くことは、日本国臣民に等しく与えられた権利です。ここでは、法律だけでなく、命令によってもその条件を決定できるとされていますが、もちろん、命令も法の支配に従いますので、公務就任の公平に明白に反するような法律や命令は違憲無効となります。



 第20条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス

(口語訳)日本国の臣民は法律の定めに従って、兵役の義務を負う。


 第20条は兵役の義務を定めています。全て臣民は、祖国を防衛し国体を護持するため兵役の義務を負うこと、これもまた国体に関する不文の法といえます。我が国において武士が存在した時代には、この義務はただ彼らに専属していたかのように見受けられますが、やはりこの時代にも、ひろく臣民に祖国防衛と国体護持の義務があり、ただ戦に習熟した武士が率先してこれらの義務を果たしていたものと捉えるべきでしょう。

 この条文は、徴兵制をとるか、志願兵制をとるかも「法律の定めるところに」委ねています。ただし、潜在的に全ての臣民に兵役の義務があるとするのが我が国の国体に関わる不文の規範である以上、法律で平時には志願兵制を可としても戦時には徴兵制をとるという立法も、憲法に違反するとはいえないでしょう。



 第21条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ納税ノ義務ヲ有ス

(口語訳)日本国の臣民は法律の定めに従って、納税の義務を負う。


 いうまでもなく、税を納めることは臣民の義務です。臣民が納税すべきことは国家を運営していく上で必要不可欠であり、これもまた国体に関する不文の規範であるといえます。いかなる税を納めるべきかは法律で定められるわけですが、反面、過度の重税は臣民を「大御宝」としてきた我が国の国体に関する不文の規範に反することになり、違憲無効となる可能性があります。


 次回は「第22条 居住と移転の自由」からです。


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大日本帝国憲法入門(7) 臣民の権利と義務(総論)

 こんばんは

 今日から、「第二章 臣民権利義務」の解説に入ります。各条文の解説の前に、大日本帝国憲法の「臣民の権利」(国体の下の自由)について、簡単にお話したいと思います。



(1)国体の下の自由(臣民の権利)


 大日本帝国憲法においては、「第一章 天皇」の次に、この「第二章 臣民権利義務」が掲げられています。これはすなわち、我が国の国体が民を「大御宝」として愛し、その幸福を願うものであることの現れです。歴代の天皇陛下は常に私たちのためにたゆみない祈りとご慈愛を注がれていらっしゃいました。

 私たち日本人は、数千年にわたるその営みの中に、皇室を中心とする天壌無窮の国体に基づく道徳や慣習などを築き上げてきました。これらの道徳や慣習などは非常に多様であり、家族や地域から始まって国家のあり方を規定するような、国体に関わる規範まで及んでいます。これらの中で、特に国体に関わる道徳や慣習などのことを憲法と呼ぶ、ということも何度もお話しました。大日本帝国憲法は、それらの不文の規範の内、特に成文化すべきものを取捨選択したものなのです。

 従って、憲法において保障される自由(権利)というものを考えるに当たっては、道徳や慣習などの最小単位である家族を重視することは不可欠です。家族こそは道徳の学校といえるでしょう。

 自由とは、人が生きる上での至上の価値です。しかしながら、一方で自由とは、その人が生きる国家において、如何なる道徳や慣習が通用しているのか、によって規定されてきます。自由は道徳や慣習によって守られ、支えられて、初めて有効になるのです。

 新しいものが全て悪いというのではありません。しかし、国家のあり方というものは数千年もの積み重ねの上にあるものです。如何なる英雄のリーダーシップや、天才的な学者の思想も、歴史の中に生まれ、日々を営み、その生を終えていった無数の名もなき人々によって培われてきた道徳や慣習や伝統に勝るものではありません。

 このように、道徳や慣習などが支える国体の下において保障される自由が、国体の下の自由です。そしてこれらは、『日本国憲法』に列挙されている「基本的人権」とは本質的に全く異なるものです。
 
 道徳や慣習、伝統を否定するところに自由は存在し得ません。かつて、フランス革命やロシア革命などでは、従来の道徳や慣習などを否定し、一から「理性」に基づいて新しい道徳と国家を建設する試みが行われました。しかし、それらはあらゆる悲惨と虐殺、暴政の末に自由は圧殺され、狂信とテロ、独裁が横行する悲惨な結果に終わったのです。

 社会科の教科書などでは、特にフランス革命はすばらしいものとして賞賛する論調のものもあります。標語として「自由・平等・博愛」などが掲げられた、などの記述をご覧になった方もおられるでしょう。

 しかし、そのような美辞麗句とは裏腹に、革命の名の下に行われた非道は眼を覆うばかりのものです。一体、なぜ「理性」を掲げた人々がこのようになってしまったのでしょうか?

 「理性」「合理主義」の尊重は、従来の道徳や慣習の否定へとつながっていきます。「革命のためなら如何なることも許される」ということになるのです。すなわち、革命に反対する者には、自由などを保障する必要はない、彼らには何をやっても許される、というようになるのです。

 つまり、「理性」「合理主義」というものは、自然科学の分野では大いに力を発揮し、有用でしょうが、それをそのまま国家に当てはめ、「理性」「合理主義」の力で国家を建設する、あるいは運営するというのは、非常に危険であり、やってはならないことなのです。

 しかし、その「理性」「合理主義」による社会改造を提唱したのがルソーであり、その思想はフランス革命を引き起こした後も社会主義や共産主義、国家社会主義などへと発展していきました。

 これらの思想の信奉者らによって引き起こされたロシア革命、第2次世界大戦、支那の国共内戦など、その犠牲者は膨大なものです。

 現代は、共産主義による革命が頻発するような時代ではありません。では、このような思想は死に絶えたのでしょうか?

 とんでもありません。「理性」「合理主義」信仰は、その名を名乗らず、あるいはその名を変えて、狡猾に我々の社会に浸透しようとしています。現在は、左翼は武力による革命ではなく、教育や宣伝によって我々を左翼思想へと巧みに誘導しているのです。我々は、何もせず座っているだけでも、知らず知らずのうちに左翼思想の信奉者にさせられています。

 ルソーら「理性」崇拝者らは、従来の道徳や慣習の下で保障されてきた自由を否定するため、それらから解放された「新しい自由」を観念せざるをえませんでした。これが「基本的人権」です。「基本的人権」は、「理性」崇拝、つまり左翼思想の源流に基づくものなのです。



(2)「基本的人権」は「理性」崇拝の左翼思想

 
 「基本的人権」とは、「臣民」あるいは「国民」の権利ではなく、国家から「解放」(これは左翼用語ですなわち国家を否定、破壊)された単なる「人」の権利を意味します。すなわち、従来の道徳や慣習、さらには国体を否定、破壊することを前提に観念されています。従来保障されてきた自由を否定、破壊するということなのです。「基本的人権」の保障される社会は、自由の消滅した全体主義社会です。

 国家から「解放」(国家を否定、破壊)された、そして道徳や慣習を破壊されたバラバラになった「個人」は強力な暴力に屈せざるを得ません。かくして革命による新国家は全体主義(ファシズム)社会となるのです。

 しかし、このような「基本的人権」の危険性を一言も教えないどころか、あたかも「基本的人権」が保障されなければ自由は消滅するという、事実とは全く逆の悪質なプロパガンダが公然と行われています。左翼思想に偏向した教育を一方的に押しつけている、これは洗脳に他なりません。

 我々は、断固として「基本的人権」を排斥、拒絶し、「国体の下の自由」へと回帰せねばなりません。



(3)「平等主義」も左翼思想

 
 ここでいう「平等主義」とは、法律上、人を公平に扱うということではありません。法律上、人を公平に遇するのは正当なことです。

 これに対して、「平等主義」とは、人の元来有する個別の違い(身分・性別・能力・財産など)の差異を認めず、またはこれらを均等化しようとすることです。例えば、『日本国憲法』においては第24条において、「両性の本質的平等」という文言があります。これは、男性と女性は「本質的」に同じである、または国家権力で無理やり同じにしてしまう、ということなのです。

 家族の根本要素は男女の結びつきです。古事記や日本書紀にみえる「国産み」も、伊耶那岐大神と伊耶那美大神の夫婦によって行われたように、この日本の誕生にも男性と女性の存在は神聖な意味を持ちます。しかし、国家を破壊する革命を指向する左翼思想においては、道徳や慣習の学校である家族は邪魔なものでしかありません。左翼思想が家族からの「解放」(家族破壊)を叫ぶのは、このような意図があるのです。

 
 次回は、第18条からの各条文の解説をしていきます。


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