原文は正字正仮名で書かれていますが、読み慣れていない人のために現代漢字仮名遣いで書き改めたものを公開します。(非公式な書きかえですので、原文を一度お読みください)
尚、本書は現代漢字仮名遣いで書かれたものが上記ホームペジに公開されているものとは別に出版されていますので、そちらも併せて読むとより理解が得られると思います。(AMAZONから購入できます。まほらまと〜自立再生論)。今回紹介する増補版は同書の第三節の単位共同社会の後ろに追加されるものです。
(経済学の課題)
現代社会は、自立再生社会とあまりにも程遠いところにある。一パーセントに満たない最大の富裕層が世界の富を独占し、賭博経済を行って世界を混乱に陷れている。人々の生活格差を広げて、さらに分業体制を隅々にまで推し進めることによって、世界の人々を巨大で複雑な機械のような経済組織の部品(parts)に仕立て上げた。そして、部品化して生活の自立性を失った人々から、安心、安全、安定までも奪い続けている。その人々もまた、合理主義(理性論、rationalism)と個人主義(individualism)に浸り続け、家族(family)の絆と家産を失いかけている。経済問題以外にも樣々な問題がある。政治問題、社会問題、雇用問題、福祉問題、環境問題、人口問題などが次々と人々に襲ってきて、出口の見えない袋小路へと追い込まれている。
このような現状から抜け出して自立再生社会へと向かうためには掛け声だけではだめである。具体的にどうしたらよいのか。そのために、最優先課題として解決が求められているのが経済問題であるが、その解決のために必要な新しい経済の仕組みはどのようなものか。
以下においては、これらのことについて具体的に提示することになるが、まず、その前にもう一度これまでの経済学について根本的な検討をすることから始める必要がある。
経済学は、経済循環、つまり、人間の生活の基礎となる財の生産、分配、流通、消費などの過程における分析と法則性を探求する学問とされ、現代では、いくつかの仮定のもとに成り立っている。それは、経済循環の活動を行う基本的な単位となる経済主体を企業と家計と政府の三者とし、それぞれが合理性による最適な行動をとると仮定する。また、その活動は、等質的で参入障碍のない公開された市場のもとで自由な競争がなされ、資源配分の合理性が保たれると仮定する。さらに、市場に参加する経済主体には、取引を行うための完全なる情報が共有されているとするのである。
しかし、これらの仮説は、そうあるべきであるとする願望と、いづれはそのような状態に近づくだろうとする期待だけで打ち立てられたものであり、現実とは完全に乖離し、未だにそのような状態にはなっていない。貧困者や被災者などに対して集まる多額の寄附は社会に大きな経済的影響をもたらすが、このような行動は経済合理性に基づかない経済主体の行動に他ならないはずである。「長者の万燈より貧者の一燈」と言うが、大災害や大事故などに多くの寄附をするのは貧者であって富裕層は少ない。このような現象は、経済的合理性では絶対に説明できない。
また、開かれた完全なる市場は存在しないし、これからも存在しえない。地域差、時差、アクセスの障碍や不均衡があり、唯一の完全なる市場は到底作れない。複数の市場を想定しても同じことである。生鮮食料品と金融商品とを同じ一つの市場で取引対象とすることは技術的にも不可能である。消費者の選好(preference)の意志には制約がなく、限られた種類の商品を対象とする市場ではその意志が完全には実現しない。
自由な市場とは、参加する自由、参加しない自由、参加しても何時でも退場する自由が確保されなければならないが、実際は事実上も法律上も新規参入できない市場が多すぎる。市場で価格が需給バランスで決定する現象は極一部でしか起こらず、市場以外で価格が決定して取引されることの方が多い。その決定に至る経緯は、自由競争によるものではなく、生産者と流通者(流通過程担当者)によつて決定した価格を消費者が無条件に受け入れるだけである。消費者は、決定された価格で購買するかしないかを選択する自由があるだけである。また、市場参加者の持つ情報は偏頗性があり、均質で同量の情報が取引当事者相互で共有されることはありえない。
このような市場の閉鎖性と不完全性、市場外での一方的な価格決定、市場外での取引の存在、情報の不完全性と非対称性などの現実は、これらの仮定と明らかに矛盾背反する。
ところが、経済学者らは、これらの矛盾を知りながら、仮説を変更しようとはしない。経済学固有の領域では解決できないことを自覚として、政治学、心理学、人類学、地理学などの手法を取り入れるが、決して当初の仮定を放棄したり修正することはない。
これまでの経済学は、価格決定の要因となる商品価値の源泉を労働であると認識している(労働価値説)。また、賃金、利潤、地代の三つが商品価値を構成するものとし(価値構成説)、このような自然価格(アダム・スミスの呼称)とは別に、需要と供給の関係で決まる市場価格があることを認めている。つまり、労働価値などに基づく価格を精密に検討したところで、これとは無関係に市場価格で価値が決定するというのである。そして、この市場価格が実効価格として経済的意義があるのであれば、これまで、何のために理論的な価値論争をしてきたのか。その成果が全く得られないまま、徒に議論のための議論をしてきたことが不思議でならない。
市場価格の決定について、供給側が希望価格を求めたとしても、それに需要側が拘束されることはないとする。そのことが需給関係とのバランスによつて価格が決定されるとする立論の根拠である。しかし、ここが経済学者の感覚と現実生活に直面している庶民感覚とが異なるところである。価格の決定は、生産者と流通者(流通過程担当者)などの供給者側が設定した定価とか小売希望価格による。資本系列、下請系列、流通系列などの系列化が極度に進む中で、抽象的意味においても市場の自由性を見出すことはできない。百貨店や大型小売店(スーパーマーケット)のような大規模小売店、專門店なども系列小売店化が進んでいる。そのため、これらの店舗での販売では、原則として価格交渉すらできず減額を求められないのである。これは「売り場」であって「市場」ではない。需要者側は、その「場」で既に決定された価格で購買するか否かの選択権しかない。つまり、価格は需給バランスで「決定する」のではなく、生産段階と流通段階であらかじめ「決定されている」のである。売手市場とか買手市場という言葉があるが、そんな現象は現実には起こらない。売手側が生産動向と消費性向に関する詳細な情報を把握して価格を決定し、それを情報量が圧倒的に少ない買手が、僅かな広告媒体の美辞麗句を手がかりに参考にしながら、買うか否かを判断するだけである。
また、価格に関する情報は、売手側と買手側がそれぞれ把握している場合もあるが、その情報量に占める多くの部分はマスメディアなどが提供している。特に、買手側に提供される情報は、特定の方向を向いた情報操作がなされている。その方向とは、大量消費の煽動である。そして、このようにして煽動された情報に躍らされた大衆が付和雷同的に迎合した行動をして消費選好が決定されている。
したがって、このような情報操作によつて形成された経済活動の結果を分析調査したとしても、そこから一定の経済法則らしきものを見出すことすら無意味になってくる。
「経済学を学ぶ目的は、経済の問題に対して一連の出来合いの答えを得るためではなく、どうしたら経済学者に騙されないかを学ぶことである。」と、ジョーン・ロビンソン(Joan Robinson)は言った。ジョーン・ロビンソンは、ケインズ革命と称された、あのジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)の弟子でノーベル経済学賞候補にまでなつたケンイズ学派の人物である。この言葉は、経済学が科学ではなく、宗教にも似た擬似科学の偏向思想であることを端的に自白しているのである。
アダム・スミス(Adam Smith)に始まる現代経済学の歴史を辿れば、そこには共通した思想がある。それは、徹底した合理主義(rationalism)、個人主義(individualism)であり、社会は個人という原子の集まりであるとする原子論的社会観(atomistic conception of society)に立つ方法論的個人主義(methodological individualism)なのである。これに対する有機体説(organic theory of society)は、社会や国家を生物的な一体のものと捉え、各部分が相互関連して依存しているとし、それを生物モデルとして認識するだけで、それ以上のものではなく、ダーウィニズム(Darwinism)の影響を強く受けている。
古代ギリシャのペリクレスは、豊かで平和な国家を築くためには家計を営むように国家を統治せよと戒めたが、この箴言には、家計が国家の雛形であるこのと意味が含まれていた。つまり、原子論や進化論で語られる平面的で単線的な単層世界ではなく、家族(家計)が地域社会から国家社会に至る立体的でフラクタルな重層世界であるという認識なのである。
原子論的社会観は、そのまま国家観に直結し、現代人権論や国民主権論、人民主権論に受け継がれ、現代経済学と一体のものとなった。そして、有機体説もまた、国家と家族との関係を探求することなく、国家法人説(我が国では天皇機説)が生まれたが、何ら学問的な深化がなく、原子論や進化論に対抗する理論には成り得なかった。
このように、現代経済学は、合理主義と個人主義を容認し、現在に至る経済制度と経済状況に対して、これを否定したり修正したりする力はなかった。むしろ、現実の経済状況を解説するだけの講釈師(経済学者、経済評論家、経済アナリストなど)の権威付けの道具にしかならなかった。つまり、現在の経済制度をこのまま傍観して維持するか、あるいは少し弥縫策を講じて維持するかの議論しかできない。決して、根本的な視点に戻って、経済の仕組みを考察することをしない。「しない」というよりも「できない」のである。現在の経済の仕組みを根本的に批判したり否定したりすることは、マルクスで終はっている。マルクスの失敗を目の当たりにして、大思想を創造する意欲がなくなった。それどころか、最大の富裕層に迎合する意見を吐くか、あるいは、少しばかりの修正意見を進言するだけにして、自己の地位の安泰を得て保身に走るだけである。そして、絶対に現在の経済体制を根本的に批判し否定する意見を述べない。述べる努力もしないし智惠も能力もない。この富裕層を批判しないのは、もし批判すれば、彼らが支配するマスメディアから排除されて講釈師としての仕事がなくなるからである。彼らは、現在の歪んだ経済の「徒花」である。これらのことは、占領憲法の護憲論と改憲論の議論でお茶を濁して、無効論を排除する構造と瓜二つである。
ところで、現代経済学では樣々な論争があるが、その中でも各国の財政政策と金融政策に最も影響を与え続けてきた重要な対立軸には、次の二つがあった。
一つは、需要面(demand-side)と供給面(supply-side)のどちらを重視して経済を捉えるべきかという視点である。この対立は、「供給はそれ自身が需要を創造する」という言葉で語られるセイの法則(say's law)に対し、ケインズが、これとは逆に、需要が供給を作り出すと主張したことから始まる。
そして、もう一つは、国家が経済に積極的に関与すべきか否かについてである。ケインズはこれを肯定し、ハイエク(Friedrich August von Hayek)は、自由放任主義の立場から、国家の関与それ自体を批判したのである。
これら二つの対立軸における見解を理念的に分類すれば、四通りの見解がありうるが、実際はそうではなく、ケインズ派と反ケインズ派という対立軸が加はって複雑なものになっている。
ケインズは、需要面(demand-side)を重視し、政府支出によつて有効需要を増やす政策を提唱したのに対し、反ケインズ主義の急先鋒であるフリードマン(Milton Friedman)は、供給面(supply-side)を重視し、減税や政府支出の削減と規制緩和をすれば供給量が増えると提唱する新自由主義(neo-liberalism)に立つている。ハイエクが初代会長を務めた新自由主義者団体であるモンペルラン・ソサエティーにフリードマンも参加したが、ハイエクとは反ケインズだけで一致していたと言っても過言ではない。
そして、さらに、アメリカではレーガン大統領(Ronald Reagan)が行ったレーガノミックス(Reaganomics)も、サプライサイド・エコノミクス(supply-side economics)の立場であり、供給サイドの増加を重視して減税を断行し、通貨供給量を重視する金融政策を唱えたフリードマンのマネタリズム(monetarism)に基づくものである。
我が国においても、あたかもこれらの代理戦争であるかのように、需要面(demand-side)を重視するか供給面(supply-side)を重視するかで政策が対立した。公共事業を推進させ、有効需要を財政政策と金融政策を用いて調整する有効需要政策(effective demand policy)を進める「需要派」と、減税と規制緩和、構造改革、民営化を推進する「供給派」のせめぎ合いがなされてきた。これによって、景気が乱高下することによる政策の混乱と失敗に便乗して、マッチポンプの果てしないシーソーゲームを繰り返してきたのである。
いまや、アダム・スミスが「見えざる手」(invisible hand)と喩えた、市場が持つ自動調整機能なるものを信じている者は誰も居なくなった。
にもかかわらず、市場に対する絶対信仰を捨てず、産業構造を第一次産業から第三次産業までに分類するものの、生産概念を一括りにして、生活必需品を生産する産業(第一次産業)の特異性、重要性を意識しない。現代経済学は、第一次産業を他の産業と平面的に捉へ、「生産」としてしか認識しないのである。
これは、合理主義、個人主義に毒されて、人間の持つ生命維持本能などが劣化している現れである。江戸の三大飢饉の一つである享保の飢饉(1732+660)の際、百両の大金を首からぶら下げたまま餓死した商人がいたという記録が残っている。この商人は、百両の大金を人から取られないように死ぬまで首にぶら下げていたものの、人を信用しない無慈悲で冷淡な性格であったためか、いざとなれば誰も相手にしてくれず米一粒すら売つてくれなかったために飢え死にしたのである。貨幣制度と拝金思想に溺れ、危機が迫ってくることを予知して対応する本能が劣化して、カネさえ有れば何でも手に入るとする傲慢なる合理主義、個人主義の奴隷が餓死したのである。
現代経済学は、この合理主義、個人主義の延長線上にあり、しかも、奢侈なる消費を煽ることが経済成長をもたらすとする不道德な考え方に支配されている。その先兵となっているのがマスメディアである。その走狗である電通PRセンターの「わが社の戦略十訓」などによれば、「①もっと使用させろ、②捨てさせ忘れさせろ、③むだ使いさせろ」などという不道德な言葉が並ぶ(『PR戦略』1963年、パッカード『消費をつくり出す人々』1961年)。このような商業主義思想(commercialism)がマスメディアを通じて大々的に展開され、大量生産、大量消費を煽るのである。
このようにして、遂に、現代経済学は科学の座から退き、宗教と変質したが、それが人を道德的に善導しようとするのであればまだしも、このような不道德を奨励する邪教であれば到底これを容認することはできない。
これから迫り来ることが確実視される世界的な食糧難に備えて、本能的に危機を感じて帰農し、食料を備蓄することが富であるとして実行する人々の健全さは、本能が劣化している経済学者や経済評論家、経済アナリストたちには到底理解できないであろう。
毎日のニュース番組に天気予報があるのは頷けるとしても、これと同じように、株価や外国為替相場がリアルタイムで一般に毎日決まって報道されることに違和感をなくしてしまった人が多くなった。異常なことが繰り返されると、そのことが異常なこととは感じなくなり、むしろ正常であると錯覚する心理現象である。
額に汗して働く多くの人にとって、証券取引や外国為替取引は無縁である。ところが、その無縁であるはずの取引が多くの人の生活とは無関係に乱高下することによつて、全体の経済に影響を及ぼし、一般の人も影響を受ける。一般の人からすれば、政府や経済界の要人の発言などは予測不能であり、不可抗力の事実である。それが生活に影響するということは、声を大にして叫ばなければならないほど明らかに理不盡なことなのである。
経済とは、本来は実体経済、実物経済のことであるが、それが現在では、金融経済、賭博経済、カジノ経済が主流となって変質した。金融経済の取引規模が、実体経済の取引規模を遙かに上回ったためである。ドルの金兌換の停止を宣言したニクソン・ショック(Nixon shock)によって、ドルを唯一の金兌換通貨としたブレトン・ウッズ体制(Bretton Woods system)は崩壞した。そして、情報技術(information technology IT)によって飛躍的に発達したコンピュータ通信網の拡大と、規制緩和の流れ、金融市場のグローバル化により、世界のありとあらゆるところでカジノ経済取引が同時多発的に可能となった。その取引量は実体経済のそれを遙かに凌ぐことになったのである。これまで、お金がお金を生む金融資本増殖のからくりは、商品取引所で扱う、比較的に品質が均等で大量取引に適する商品(綿糸、綿花、綿布、繭糸、毛糸、ゴム、砂糖、穀物、金など)や、証券取引所で扱う、株式、債券などを対象とする投機取引によるものであった。ところが、これに加えて、種々雑多な金融派生商品(デリバティブ、derivative financial instruments)を生み出して投機取引(賭博取引)を拡大させた。
実体経済である世界貿易で決済される金額は十四兆ドル(約一千兆円)程度であるのに対し、従来の金融商品の決済に用いられる短期金融資本は、その四十倍の約五百六十兆ドル(四京二千兆円)とされてきた。ところが、金融派生商品取引は、レバレッジ(leverage)の元本ベースで、これに匹敵する以上の巨大な金額になっていると試算されている。そうすると、金融経済の規模は実体経済の規模の百倍以上になっていることになる。そして、これをFRB(Federal Reserve Board)という欧米銀行家連合体を頂点とした世界金融が支配を継続している。このような巨大な金融資本に世界が支配される金融資本主義の跋扈を、ケインズもフリードマンも想定していなかったはずである。
そのため、百分の一以下の実体経済を対象としてきたこれまでの金融政策や財政政策では全く効き目がないことが明らかである。しかも、金融政策と財政政策を分離しているから、さらに効果がない。現代の経済は、家計、政府、企業のというこれまでの経済主体ではない、「投資家」という名の博奕打ちの「心理」がどのように動くかによって左右される。
例えて言えば、ごく限られた一部の海域における水温、成分濃度、海流の方向と強さ、生物の生息状況などを研究対象としても、その海域は閉鎖系ではなく、開放系であるために、これに接続するもっと広い海域から受ける影響を無視した研究成果や推論には全く意味がないことと同じである。しかも、その海流の変化には全く法則性がなく、心理の動きで自在に変化するのであるから予測不能である。予測不能なので放置して静観するしかないのに、何もしないのは怠慢であると批判を受けるので、政府は保身のために無駄なカネを使つて対策を講じた素振りをする。それが投資家の心理にまた影響して少し変化を起こすが、政府の対策に効果があったからではない。
このような賭博経済を縮小させることも修正させることもできない現代経済学では、将来の世界と自国の経済を語る資格はない。これからの経済学の課題は、この混迷状態から抜け出すための具体的な方策を示すことであり、そのような新しい経済学が必要となってくるのである。
(通貨発行権を巡る攻防の歴史)
新たな経済学を構築するについて、次に検討しなければならないのは通貨制度に関してである。通貨制度については、そもそも通貨発行権は誰に帰属するものなのか、そして、通貨の本質とは何なのかについて検討しなければならないのである。そのためには、通貨と通貨発行権にする歴史を振り返る必要がある。
現在、ヨーロッパ連合(European Unin EU)では、統一通貨ユーロ(Euro)の通貨発行権をヨーロッパ中央銀行(European Central Babk ECB)に委ねたことによるソブリン・リスク(sovereign risk)が囁かれているが、そもそも歴史的に見れば、国王の持つ統治権(sovereign)の中で最も重要なものの一つに通貨発行権があった。これは、財政の錬金術である通貨発行益(シニョレッジ、seigniorage)を打ち出の小槌(通貨発行権)から繰り出せるからである。そして、発行した貨幣によって租税を徴収し納税させることによって社会に循環流通させて行けば、発行した貨幣の信用を高めることになり、「貨幣」は信用力を得て「通貨」(currency)となり、さらに、法律により強制通用力を得て「法貨」(legal tender)となる(本稿では、特段の場合以外は通貨と法貨とを同視して通貨と呼称し、これと貨幣とを対比して論述することとする。)。
貨幣の信用力が弱いときには、納税は物納によることになる。そして、物納された商品を市井に流通させるときに、対価として貨幣を徴求すれば、徐々に通貨となる。つまり、通貨発行権は、租税徴収権と不可分な関係にあり、これを車の両輪として金融政策と財政政策を統一的に行ってきたのである。これらは、世界の各国において概ね共通したものであった。
ところが、租税徴収権は、国家の存立とその財政のためにはどうしても切り離せないものであるが、通貨発行権の場合は必ずしもそうではなかった。通貨は偽造されてはならないし、偽造されれば、通貨制度の根幹が揺らぐ。しかし、偽造しにくい金属貨幣を作ろうとしても、高度な鋳造技術を国家が保有しているとは限らない。たとえば、室町時代に明銭を大量に移入して流通させたこともあった。
そして、歴史が金属貨幣から金本位制による兌換紙幣への時代へと移行すると、国家以上に保有する金の量が多い大富豪が、その財力に物を言はせて、打ち出の小槌である通貨発行権を国家から奪って利益を得ようとすることになる。まさに、イギリスとアメリカには、通貨発行権の争奪を巡るこのような攻防が繰り広げられた歴史があったのである。
まず、貨幣経済が発達していなかったイギリスでは、ロンドンで両替商などを営む金細工師(金匠、ゴールド・スミス、goldsmith)の銀行家たちが事実上の通貨発行権を持っていた。それを、十二世紀の初めにヘンリー一世(Henry Ⅰ)が取り上げて、初めての英国通貨を発行した。ところが、ゴールド・スミス(銀行家連合)は、再び通貨発行権の奪還に成功する。その事件が、クロムウェルによるイギリスの清教徒革命(Puritan Revolution)であり、その結果、イギリスの中央銀行となるイングランド銀行(The Bank of England)が設立され、以後、イギリスの通貨発行権は奪われたままになっている。中央銀行というのは、国家から通貨発行権を付与された民間銀行複合体で、他の私的銀行を統括して金融政策を行うものであり、政府とは別の組織である。
そして、これと同じような攻防がアメリカ合衆国でも起こった。一九一〇年、J・P・モルガン、ジョン・ロックフェラー、ポール・ウォーバーグなど十一人により、合衆国から通貨発行権を奪い取って中央銀行を設立するための秘密会議がなされ、それをウィルソン大統領(Woodrow Wilson)が、一九一三年に、クリスマス休暇で議員が居ないのに議会を開いて、電撃的に秘密会議の決定に基づく法案を成立させ、中央銀行への返済財源に充てるための所得税徴収法まで成立させたのである。そして、翌一九一四年にFRBが設立され、合衆国の通貨発行権は奪われた。これは、「合衆国議会は貨幣発行権、貨幣価値決定権ならびに外国貨幣の価値決定権を有する。」とするアメリカ合衆国連邦憲法第一章第八条第五項に明らかに違反していた。
なぜこのようになったかについては、独立戦争以来の伏線があった。合衆国は、十八世紀に、財政が脆弱なまま長期にわたる独立戦争を行い、その戦費などを欧州の民間銀行から調達し、実質的には通貨発行権を奪われていた。独立戦争終結後の一七八二年には、最初の中央銀行であるバンク・オブ・ノースアメリカ(The Bank of North America)が設立されるが、恒久法にすると憲法違反となるので、その後も、時限立法による中央銀行として、一七九一年にファーストバンク・オブ・ユナイテッドステイツ(The First Bank of United States)、一八一七年にセカンドバンク・オブ・ユナイテットステイツ(The Second Bank of United States)が設立された。
ところが、ジャクソン大統領(Andrew Jackson)は、一八三一年、欧州の銀行による支配に異議を唱えた。すると、暗殺未遂の災難に遭った。その難から辛うじて逃れたジャンソン大統領は、暫定的に中央銀行として認める時限法を更新する改正をしなかったため、セカンドバンクは一八三六年に消滅した。
そして、そのことが引き金となって起こったのが南北戦争である。南軍も北軍もイギリスの銀行から戦費の調達を行った。イギリスの銀行は究極のリスクヘッジ(risk hedge)を行って、南北戦争終了後における恒久的な中央銀行の地位を狙ったのである。ところが、南北戦争後の一八六二年に、リンカーン(Abraham Lincoln)は、アメリカ政府(財務省)の政府紙幣であるグリーンバックスドル(Greenbacks dollar)を発行し、欧州銀行複合体の支配からの脱却を図ろうとした。これは、中央銀行が発行するドルではなく、アメリカにおける初めての憲法通貨(法貨、Constitutioal Money)である。そして、これにより一八六五年にリンカーンは暗殺されるのである。
暗殺と言えば、ケネディ大統領(John Fitzgerald Kennedy)の暗殺も同じである。ケネディは、アメリカに大量に眠る銀の埋蔵量に着目し、FRBの金本位制から合衆国独自の銀本位制へと移行することが可能であるとして、一九六三年に、銀本位制により合衆国発行の法貨を発行する大統領行政命令(executive order 11110)を発令した。ケネディこそ、FRBに奪われた合衆国の通貨発行権を取り戻すことに最も熱心で勇気のある大統領であった。そして、ケネディもまた、大統領行政命令を発令した同じ年の十一月二十二日にダラスで暗殺されるのである。
また、こんなことがある。大東亞戦争末期の昭和十九年、ケインズは、アメリカのブレトン・ウッズの国際会議にイギリス代表団を引き連れて参加し、ブレトン・ウッズ体制の基軸となる国際通貨基金(International Monetary Fund IMF)と国際復興開発銀行(世界銀行、International Bank for Reconstruction and Development IBRD)の設立に盡力したが、この会議でバンコールシステム(bancor-system)の導入を提唱した。これは、イギリスなどが提唱したもので、金(gold)など三十種類の基本財を本位財とした「バンコール」(bancor)という人工貨幣単位(世界通貨)を導入する案であり、アメリカ一極支配に反対したケインズの提案である。
しかし、ドルを世界通貨として通用させたいFRBの金融傀儡国家アメリカの強い反対を受け、しかも、この提案を阻止するため、アメリカはイギリスに実質的に無担保で大量の貸付を行う米英金融協定の破棄することになると申し入れたことから、イギリスはこの提案を断念し、金本位制を維持することを条件としてドルの一極体制を支持することになった。ケインズは、第一次世界大戦後においては、金本位制への復帰に反対して管理通貨制度を提唱したが、第二次世界大戦後は金本位制を支持したのである。まさにご都合主義の通貨制度理論であった。ともあれ、ケインズは、アメリカから帰国の直後に急死する。死因は、滞在中に起こした重度の心臟発作が小康状態を保ったものの、後に容体が悪化したためとされている。
それがどのような意味を持つとしても、ケインズの生涯は、ドルを世界通貨にすることによって、FRBが実質的な世界の通貨発行権を独占しようとする企てに反対することが如何に困難であるかを物語るものであった。
ところで、我が国について言えば、中央銀行としての日本銀行は、明治十五年に日本銀行条例基づき唯一の発券銀行(日本銀行券)として株式会社類似の特殊法人として設立された。そして、大東亞戦争中の昭和十七年に戦時体制強化のために日本銀行法が制定されて特殊法人(資本金一億円、政府出資五十五パーセント)となったが、戦後は、再び中央銀行としての独立性を回復させ、欧米の例を無批判に模倣して金融と財政とをさらに分離させる傾向にある。
現在、我が国政府は、日本銀行に通貨発行権を独占させている(日本銀行法第四十六条)。そして、その発行限度はその発行額と同額以上の保証物件(地金銀、商業手形、国債、政府証券、外貨、外国為替など)の保有を必要とする保証準備制度がとられている。これは、兌換の引換準備として金銀塊の保有を求める正貨準備制度とは異なり、一切の中央銀行の資産も同列に保証物件とし、その限度をもって発行限度とする制度のことである(最高発行額制限制度)。つまり、二国間でキャッチボールをすれば、いくらでも通貨発行ができる仕組みになっているのである。
しかも、これは、最高発行限度を越える銀行券の発行を認めないとする最高発行額直接制限制度ではなく、一定の条件のもとでは制限額を越える銀行券の発行を認めるとする最高発行額屈伸制限制度という管理通貨制度を採っている。要するに、限度がないのと同じである。
これは、世界が金本位制からその廃止へ、兌換券から不換券へ、そして、固定相場制から変動相場制へという動向と連動しているもので、これまでの財(商品など)とそれを媒介する通貨(媒介通貨)との実物的対応関係は完全に喪失するに至っていると言える。
また、通貨発行権に関して言えば、帝国憲法では明記されていないが、通貨発行権は、性質上当然に国家に帰属する。ちなみに、帝国憲法制定前の明治十五年の日本銀行条例は、帝国憲法第七十六条第一項により、帝国憲法に矛盾しない法令として遵由の効力があることからして、国家の通貨発行権を日本銀行に付与することは、これによって国家固有の通貨発行権(政府券発行)が否定されない限り合憲であるということになる。そして、通貨発行権に関する事項は、前に述べたとおり、帝国憲法第六十二条の租税法定主義による租税徴収権の規定と一体となるものであるから、明文規定はないとしても当然に憲法事項である。そうすると、日本銀行条例という法令は、帝国憲法施行後は、実質的な憲法となったのである。そして、それが昭和十七年の法律によって変更されたとしても、同じく帝国憲法第七十六条第一項に基づいて同法律は有効となるのである。
ところで、大東亞戦争の敗戦によるGHQの軍事占領下で日本国憲法と称する占領憲法が制定されたが、その実質的な草案となったマッカーサー草案の第七十六条には、「租税ヲ徴シ金銭ヲ借入レ資金ヲ使用シ竝ニ硬貨及通貨ヲ発行シ及其ノ価格ヲ規整スル権限ハ国会ヲ通シテ行使セラルヘシ」として、租税徴収権と通貨発行権を一体として規定していた。しかし、最終的に占領憲法では通貨発行権の条項は削除された。マッカーサー草案における通貨発行権の規定は、前に述べたアメリカ合衆国連邦憲法の第一章第八条第五項の「合衆国議会は貨幣発行権、貨幣価値決定権ならびに外国貨幣の価値決定権を有する。」に由来するものである。それが削除されるに至る詳細な経緯は明らかではないが、GHQ内部に居たFRBの手先が削除させたとすることは容易に推測しうることなのである。
(交換経済と通貨制度)
このように、通貨発行権の争奪を巡る攻防の歴史は熾烈なものであって、これは決して過去の問題ではない。現在もなほ続いている問題である。そして、将来に向けてこの問題に真摯に取り組むためには、通貨発行権は一体どのような経緯で登場してきたのかについて、通貨の歴史をさらに鳥瞰しておく必要がある。
そもそも、財の直接交換としての物々交換経済から貨幣を媒介とする間接交換の貨幣経済へと進展したことに関して、これまでイギリスでの通貨論争や貨幣数量説、通貨供給量など通貨にするいくつかの考察がなされ、ほとんどの経済学者によって、通貨が存在することを当然の前提とする理論が構築されてきたものの、これらはいづれも通貨発行権の帰属とその根拠、通貨発行総量の決定要因などに関する問題を論じたものではなかった。
そこで考察するに、物々交換経済とは、二者間で相互に所有する財(物質的な財(goods)のうち、債権、証券などの物質的な財への権利を除いた実物としての経済財であり、負の財(bads)を含まないもの)を等価で直接交換する取引経済のことである。そして、ここで言う財とは、物質的、精神的欲望を満たす事物のことを言う。
また、貨幣経済(商品経済)とは、貨幣を媒介として市場などで財(商品など)と貨幣を等価で交換する取引経済のことであり、そこで交換取得した貨幣により、さらに他の財(商品など)を取得する形態であることから、直接交換の物々交換と比べて、財(商品など)の間接交換の形態と認識されている。
ところが、物々交換は、歴史的に広く実在した形態というより、貨幣経済による商品交換の特徴を理解するための理論的モデルであるとし、直接交換の物々交換と貨幣を媒介とする間接交換である商品交換とは根本的に異なるとする見解がある。はたしてそうなのか。
このことを考えるについては、次の事実に着目する必要がある。それは、商品自体が貨幣として用いられた「商品貨幣」(物品貨幣、貨物貨幣、実物貨幣、commodity money)が流通した時代が物々交換経済と貨幣経済との間に歴史的に存在したという事実である。これは、貨幣経済が未発達な時代にみられたもので、それ自身が商品であり、その素材価値と同時に、貨幣としての価値を持っているものが用いられた。使用価値と交換価値の双方を備えていたのである。これには、社会の歴史的、社会的事情によってその商品貨幣とされた商品も様々なものがある。石塊、貝殻、布、皮革、家畜、穀物などであり、最近では、冷戦構造崩壞直後のモスクワで、ルーブルよりもアメリカ製の紙卷きタバコ「マールボロ」(Marlboro)が通貨の代用(商品貨幣)とされたことがあった。
そして、この商品貨幣が金(gold)や銀の貴金属に変はり、重商主義(mercantilism)がこれを支えた。金銀の保有を増やすことが国家の利益(富)であり、それが貿易の目標であるとするのが重商主義である。これに対して、アダム・スミスは、「富」とは、金銀の蓄えではなく、人々が消費する食料や生活必需品が多く生産されることであるとして重商主義政策を批判した。しかし、この重商主義競争によって各国に蓄えられた金銀が初めての世界通貨となったのである。そして、ここから、銀本位制、金本位制が生まれ、金銀を素材とする金貨、銀貨の本位通貨が流通することになった。十九世紀以降では金(gold)が世界的に本位財としての地位を獲得し、この金属通貨(金貨)が金本位制による兌換紙幣に代置された。商品通貨と異なるのは、兌換紙幣には、それ自体に使用価値がないことである。
その後は、兌換紙幣のうち、国際間決済に広く用いられる基軸通貨(国際通貨)として、ポンド(pound)がその地位に就いたが、二十世紀になるとその地位をドル(dollar)に奪われた。
ところが、ドルを唯一の金兌換通貨としたブレトン・ウッズ体制が崩壞し、管理通貨制度へと移行し、外国為替についても固定相場制から変動相場制へと変遷した。それでもドルが基軸通貨であり続けるのは、アメリカの強大な軍事力とFRBの財力、そして、その結果、ドル以上に実質的な国際通貨である「原油」という商品通貨の決済通貨がドルであることによるものである。
しかし、金本位制を捨てたことは、金(gold)がこれまでと同じように商品通貨の地位に転落したことだけではなく、「本位制」そのものを捨てたことに重大な意味があることに注視しなければならない。つまり、管理通貨制度というのは、「無本位制」のことなのである。ところが、世界は、金兌換が不能となっても、これまで通りの習性により、無本位制通貨の価値を信じる「パブロフの犬」となって、ドルを見ればよだれを流し続けている。
このように、物々交換から商品貨幣へ、そして金属通貨から兌換紙幣へ、さらに、本位制から無本位制(管理通貨制度)へ、固定相場制から変動相場制へと目まぐるしく通貨制度は変遷したものの、商品価値を実体的(実物的)に表象したモノが貨幣経済における貨幣(通貨)として連続的に認識されてきたものであって、そこには何らの断絶もない。従って、直接交換と間接交換とは根本的に異質であるとする見解には与し得えないことになる。
(通貨発行権の本質)
このようなことを前提とした上で、では、どのような根拠によって通貨発行権は、国家ないしは国家の指定する中央銀行が独占することになったのか、ということについて考えてみたい。
そもそも、通貨発行権を国家が独占するまでは、誰が理論的意味において通貨発行権を持っていたことになるのか。そして、それがどのような理由によって国家又は第三者が取得することになったのか。あるいは、国家が独自の理由と根拠によって通貨発行権を始原的に取得したというのか。
ところが、これらの疑問についても、経済学のみならず全ての学問分野において理論的に議論されたことはなかった。
思ふに、このような財(商品など)と媒介貨幣との関係は、形影相伴うかの如く、物(財)に陽が当たれば(流通すれば)陰(貨幣)ができる様子と同じである。これが商品貨幣の場合は全く問題なかった。商品貨幣は、価値実体のある商品自体の価値があったことから物々交換の延長線上で説明ができたからである。
しかし、価値実体のない媒介貨幣を商品交換の媒介とする場合には、その関係の認識が外観上は希薄になってくるが、この関係が維持されない限り、商品経済の根底が揺らいでしまうのである。
つまり、厳密に言えば、貨幣は、財(商品など)との関係で、財(商品など)の存在を原因として認められる有因の有価証券(有因証券)であり、無因証券である約束手形などとは異なる。いわば、貨物引換証や船荷証券と同様の有因的性質のものと言える。つまり、個別の財の価値に個別的に対応する有因的為替手形の性質に類似したものとして、貨幣を個別的に観察すれば観念的に認識しうる訳である。
では、その個別観察による貨幣(個別的貨幣)の振出人(発行者)は誰か。それは、取引当事者だけの関係で言えば、個別的貨幣の発行者はその商品の所有権を取得する買主である。そして、売主である元所有者は、その受取人として、買主が個別的貨幣に表象されている価値相当の別の商品を将来おいて取得することを保証した個別的貨幣の交付を受ける。ところが、見も知らない買主が発行した個別的貨幣には信用がない。また、取引ごとに個別的貨幣が発行されることの煩雑さと取引障害もある。そこで、それを回避して貨幣経済を推進させるために、国家は国民に向けて、統一的な均質の貨幣を発行して、その貨幣に表象された価値があることを保証することになる。
しかし、個別的な財に対応する個別的貨幣を取引毎に発行するのは現実的には不可能であるから、個別的対応から総額的対応をした貨幣(全体的貨幣)を発行することになる。それは、国内に存在する流通財の価値総額に対応する貨幣総量を一斉に発行することになる。その全体的貨幣の貨幣総量は個別的貨幣の総和に等しいのである。
このようにして、国民は、商品と交換する際に必要な通貨を発行する権限を国家に委譲することになるのである。
国家に通貨発行権が委譲されることにより、貨幣は、法的な強制通用力を有する「通貨」(法貨)となる。通貨が商品価値を表象し化体するものであれば、それは単に法的な強制があればよいのではなく、財の実物価値と等価的な対応関係が維持されているとする国民の信賴を得なければならない。
そして、その信賴の根底には、取引ごとの個別的貨幣が通貨として認識できる根拠としての論理が存在しなければならない。それは、個別的貨幣が個別的通貨への転化する消息を手形に擬えて説明できるということである。手形には、為替手形や約束手形の二種があるが、それが登場してきた順序は、貨幣(法貨でないもの)と通貨の始まりから相当に遅い。登場した順序を時系列で並べれば、貨幣、通貨、為替手形、約束手形の順である。ところが、この時系列とは異なり、貨幣のしくみに相当するのが約束手形のしくみであり、通貨のしくみに相当するのが為替手形のしくみであることが解る。
為替手形とは、発行者(振出人)が第三者(支払人)宛に一定の金額を受取人又はその指図人(被裏書人)に支払うことを委託した有価証券である。これに対し、約束手形は、為替手形の支払人が存在せず、振出人自らが支払することを約束をしたものである点に相違がある。
そうすると、前にも触れたが、取引当事者間だけに限定した考察では、個別的貨幣は、約束手形と同樣に、買主が振出人(貨幣発行権者)であり売主が受取人となる。ところが、ここに国家が介入してくるとなると、国家は為替手形の引受人の地位に置かれて個別的通貨となる。約束手形から国家が引受人となる為替手へと転換するのである。そして、通貨であることから、振出人も受取人も無記名となり、国家(引受人)と受取人及びその承継人である所持人だけの関係となる。このようにして、個別的貨幣が個別的通貨になる。個別的通貨では、個別的な価値しか表象しないが、国家が個別的通貨を超えて、その総和である通貨総量を全体的に引受することによって、個別的貨幣に対応する個別的通貨から全体に対応する全体的通貨となる。つまり、これによって、通貨発行権を委譲された国家が発行する貨幣総量は、引受総量すなわち実物財(商品など)の価値総量と等価的に対応しなければならない制約が生まれることになるのである。
(財の種類と分類)
通貨が財(goods)の交換手段であれば、財の価値と通貨とは個別的に対応するものである。それがそれぞれの総量として対応するとなると、財が生産された後に使用されて消費され、その価値が減少・消滅するという運命も共にすることになる。全ての財の価値に永続性があるのであれば、通貨もまた永続性がある。しかし、財には永続性がない。個別的には存続性に時間的な差異はあっても、永続性がないことは確かである。財の総量において、消費による消滅、使用による減耗(減価償却)、汚損などの減価事由と、新たに財が生産されることなどによる増価事由を考慮して、通貨の総量も増減して決定されることになる。
ここで言う財(goods)とは、人間の物質的又は精神的な欲求を満たす事物のことを指すが、このうち、通貨の使用が必要となる流通予定の財のことを「流通財」と呼ぶことにする。ただし、流通財は、実体を備える物質的な実物財と知的財産権及び労務(商品原価としての労働とそれ自体が商品となるサービス)に限られ、一般債権、証券などの金融商品及び金融派生商品などは含まない。
なぜならば、流通財は、後に述べるとおり、通貨発行権に基づいて発行される通貨総量に対応するもので、その範囲が極めて重要になるからである。それゆえ、流通財から除外される財について、以下にもう少し具体的に検討してみる必要がある。
財には多くの種類があり、その分類も多樣である。会計学における資産の概念とは類似するも一致はしない。二分法による分類によっても、流通財と非流通財の区別の他に、価値が減耗して減価償却される性質があるか否かによる償却財と非償却財の区別、消費に向けられた性質を有するか否かによる消費財と非消費財の区別もある。また、本稿で述べている「家産」(自給用財産、住宅、生活必需品など)と「非家産」の区別もある。
ここで、重要な点は、家族の財産(家族財産)には、家産とそれ以外の財産(一般家族財産)とがある。そして、家族財産のうちから家産に組み入れて家産としての目的と機能を備えれば家産になり、それ以外の流通財は非家産であることである。つまり、家産となったものは流通財から非流通財に転化する。たとえば、食料は、商品として流通するときは非家産(流通財)であるが、家族が取得して消費する段階や、これを将来や危機に備えて備蓄した物は家産(非流通財)と認識されるのである。この区別は、後に述べるとおり、国富本位制の基礎となる国富総量の計算に際して、また、家産の課税免除や優遇税制などの適用に際して必要な区分である。
この家産は、家族の財産であるのが原則であるが、企業にも家産がある。企業とは、経済活動を行う経済主体(economic unit)のことであり、自家消費を越える商品の生産活動を行う組織のことである。組織形態や規模は問わない。事業活動に必要な企業の流通財は、すべて家産となる。
消費活動を主とする経済主体を家計と呼称するとすると、家産で生活を営む家族は、自家消費の限度で生産活動を行い、不足する商品を取得して消費する経済主体であるから、家計とは少し異なる。家族は、家計だけでなく生産者としての側面を持っている。生産能力が備われば、企業としても活動しうる。生産農家などがその例であって、自家消費を越える農業生産活動を行っているからである。家産を活用して自家消費に必要なものを自家生産して、完全自給ができることになれば、その家族は、流通財の貨幣経済から完全に卒業できることになる。
財の中には、公共財産や家産などのように、流通を予定していないものや流通させることが不可能な非流通財も存在する。このようなものは、使用価値はあっても交換価値を認識できず、流通に必要な通貨の使用を予定しない。それゆえ、理念的には国富に含まれるとしても、通貨取引の対象とならないために、後に述べるとおり、国富本位制の基礎となる国富の総量には含めないことになる。
また、流通財は、現実において常に対価を以て交換されるとは限らない。実際に対価を以て交換されたか否かは問題ではない。ある理由によって無償贈与された流通財であっても、そもそも交換される可能性があったものであり、また、それを無償で取得した者がさらに対価を以て交換する可能性もあるからである。つまり、流通する可能性があるものは、流通財なのである。
そして、この流通財にもいろいろな種類があるが、土地や建設仮勘定のような非償却資産(非償却財)を除けば、すべて償却財である。償却財とは、使用価値があり耐用年数のある流通財が経年変化や、使用による減耗や汚損などによって減価したり、消費によって価値が減少又は滅失するものである。これは、会計学及び税法上の減価償却資産(depreciable assets)に類似する概念であるが、全く同じではない。つまり、償却財とは、土地などの非償却財を除いたすべての流通財のことである。
次に、一般債権や金融商品などの広義の債権についてであるが、これらはそもそも実物財と対応していない。債権は、一定の給付を求める権利であるから、実物財の他に、この種の金融商品(financial instrument)や金融派生商品(デリバティブ、derivative financial instruments)までも通貨発行権の基礎となる流通財として認めると、さらにその金融商品を取得する権利、さらにまたその権利を取得する権利というように、際限なく財が生まれることになる。そうすると、一個の実物に対して、二重三重と次々に無限級数的に拡大して多重的に名目上の価値が重複加算されることになる。
また、債権は、常に債務と対向するものであって、国家を全体として観察する会計学的な認識では内部取引(internal transaction)に過ぎず、仮に、流通財と認識しても、債務という負の財と正の財である流通財が相殺されてしまうものであって、流通財として認識できない。
また、労務についてであるが、これには、商品などの製造原価となる労働と、商品それ自体であるサービスとがある。労務は、原則として提供と同時に消滅する性質のものである。しかし、個別的に見れば、会計学上の繰延資産(deferred assets)や前払費用(prepaid expenses)と認識できるものもある。
さらに、人の労働やサービスは、将来にわたって継続して供給されるために国家が永続するものであることからして、永続的な労務の総体を基本権として、資産として計上することも可能である。しかし、それは永続性を前提とすれば無限大の価値があることになり、その通貨総量もまた無限大となってしまうので、計上するには不適格である。そこで、年度末において、次期に提供されうる労務一年分の総量を棚卸資産(inventories)として計上することになる。これは、永続する無限大の労務の総量(基本権)の一部である支分権として認識することができるからである。それゆえ、労務価値の年度毎の総額は、通貨発行権の基礎となる流通財として認識することになるのである。
(国富本位制の提唱)
このように考えてくると、貨幣総量は、国民経済において流通しうる財の価値総量に対応することになる。この流通財の価値総量は、一定時期(決算期末)における流通財の残高ということになる。これは、フロー(flow)とストック(stock)の区別としてはストックであり、損益計算書(profit and loss statement P/L)と貸借対照表(balance sheet B/S)の会計学的区分からすると、B/S勘定(accounts)なのである。フロー(P/L勘定)は一定期間の変動を測定する動的観察であるのに対し、ストック(B/S勘定)は一定時点の存在(残高)を測定する静的観察である。
社会全体の総需要価格と総供給価格とが恒常的に一致するとのワルラスの法則(Walras' Law)や、年間に生み出された付加価値の総量を示す国民総生産(Gross National Product GNP)や国内総生産(Gross Domestic Product GDP)について、生産と分配と支出の各視点からそれぞれ測定しても一致するとする三面等価の原則(principle of equivalent of three aspects)などは、すべてがフロー(P/L勘定)の視点であるから、理論を構築する手法に矛盾はない。
しかし、これまでの経済学が貨幣数量について論ずるとき、ストック(B/S勘定)の領域として認識すべきものをフロー(P/L勘定)の領域で論じたり、これらを混在させて論じてきたという、初歩的で致命的な誤りを犯してきた。
たとえば、物価水準は、流通貨幣量によって決定するという貨幣数量説(quantity theory of money)や、ハイパワードマネー(high-powered money)の増加が何倍のマネーサプライ(通貨供給量、money supply)の増加となっているか、その倍数である貨幣乗数(money multiplier)の理論によると、T(財の取引総量)、P(物価水準)、M(流通貨幣量、貨幣需要、通貨供給量)、V(流通速度)、Y(実質所得)、k(比例定数)、H(ハイパワードマネー)、C(現金)、D(預金)、R(準備預金)との関係を
① PT=MV
② M=kPY
③ H=C+R
④ M=C+D
と仮定するが、このような仮定が現実に成立しているかには大きな疑問がある。k(Marshallian k)が定数であるとの証明はされていない。つまり、MがPとYの関数であるとしても、それ以外にMに影響を与える変数がないことが証明されていないからである。その証明がない限り、これを定数とする根拠はない。現実においてもkが定数でないことは明らかになっている。
さらに、H、C、D、Rはストックであるが、それ以外はすべてフローであるし、Mはフロー(②)とストック(④)の双方の意味で用いている。
速さの数値(フロー)と重さの数値(ストック)とは関連しないし、その数値比較に全く意味がないのと同じように、フロー(P/L勘定)とストック(B/S勘定)の数値の間に直接的な関連性はない。ストックの財を表象する通貨をフローで認識することの前提が誤っている。通貨をフローの視点で認識するとしても、まずは通貨をストックで認識した上で、それがフローの視点からの観測結果とどのような関連性があるかということを考察するのが順序である。
それゆえ、このような誤った前提と手法で観測することは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の世界なのである。経済学者や経済評論家などの経済動向予測がいつも外れるのは、彼らがその世界の住人だからである。
そのために、合成の誤謬(fallacy of composition)とか、流動性の罠(liquidity trap)、「貨幣錯覚」(money illusion)などという、「理論通りにはならない理論」を編み出し、擬似科学へと堕落したのである。
ストック(B/S勘定)の領域である通貨総量の認識に関して、金本位制、銀本位制の時代までは、ストックの視点に立つていた。金銀の保有量というストックの視点だつたのである。ところが、管理通貨制(無本位制)に移行すると、いきなりフロー(P/L勘定)の視点に変更してしまった。管理通貨制でも、原則として発行限度を決めたのであれば、ストックの視点は維持しなければならない。ところが、前述のとおり、実質的には発行限度を設けなくなり、青天井になった途端に、通貨に関して專らフローで測定することにした。どのような理由によるものか、何の説明もないが、この程度でも素人を騙せるということである。
しかし、これは、学問の自殺行為であって、そのようにしてまで誤魔化さないとドル体制を維持できないということである。
やはり、経済を健全にするためには、通貨についてはストックの視点を物差しに使う「本位制」によるべきである。ところが、金本位制などはストック視点ではあったが、金(gold)の価値総量と国富(national wealth)の価値総量とは一致しない。ここで言う国富とは、国家の保有する流通財の価値総量であるから、国家の金(gold)保有量は国富の一部を構成するに過ぎないので、常に、
国富>金(gold)
の不等式となる。金本位制が崩壞した原因は、結局のところ、絶対に克服できないこの不等式のためであった。
ところで、通貨を保持していることは、自己が欲するものが見当たるかは解らないが、どこかにこの通貨と交換できる何かしらの流通財が存在しているという信賴がなければならない。これが通貨制度を維持するについて必要なことである。その信賴を維持するためには、もう一度アダム・スミスの「国富」の意味を思い出せばよい。金銀を保有することが国益ではなく、人々の生活に必要となる豊かな流通財が存在することなのである。つまり、国家の保有する流通財の価値総量である「国富」が、貨幣総量を決定づける本位でなければならないのである。
この国富本位制(national wealth standard system)を実現するためには、政府の外に存在する中央銀行に委ねられてきた通貨発行権を国家が取り戻すことから始めなければならない。シンガポールや香港のように、通貨発行権が政府にあって中央銀行にはない国家や地域もあるが、殆どの国家はFRBや日本銀行などのように政府の外にある中央銀行が通貨発行権を持っている。そこで、中央銀行から国家へと通貨発行権を返還させ、中央銀行の一般銀行化、公的清算、政府への吸収合併などの措置を講ずることが必要となってくる。過渡的には、子会社化による連結決算処理が必要となる。
そして、最終的には、銀行券(日銀券)と政府紙幣(国内通貨)とを一対一の交換比率で等価交換する措置がとられることになる。等価交換される理由は、経済的混乱を回避するためでもあるが、これにはもっと深い意味がある。
国富本位制というのは、国富の価値総量を発行する通貨総量と同等にすることが基本であることは、これまで述べてきた。
ところが、財の価値を評価するとしても、それには絶対的基準がなく、他の財との交換比率を相対的に決定して決めることになる。個々の財には、絶対的な不動の価値というものはない。常に、他の財との交換比率によって相対的に価値が決まるのである。そして、その交換比率によってそれぞれの価値が相対的に決定したときに用いられる価値単位が通貨であって、通貨それ自体に独自の価値が設定されて一人歩きするものではない。
試合競技(match)における審判員(referee)は、試合競技の判定をする立場であって、試合競技自体には決して参加しないし、参加しては試合競技は成り立たない。通貨が流通財の交換経済という試合競技に加はつたことは、審判員が試合競技に参加することと同じことであり、これによって貨幣経済の自己矛盾が起こったのである。
従つて、流通財の価値総額を評価するときは、形式的な価値尺度(通貨単位)を設定し、その単位を物差しとして、膨大な種類の流通財の相対比較を網状的(network)に均衡させて名目的な価値が決定されるのである。
流通財を鏡に映した姿が通貨であるから、流通財が全体として大きくなれば通貨の単位も大きく映る。小さくなれば小さく映るのである。同じ速度で併走している二台の車に乗つている観測者(国民)からすれば、二台の車(流通財と通貨)の相対速度は零(zero)となり、止まって見えるのである。
それゆえ、通貨量をその都度数量調整などする必要がないという乱暴な議論も出てくる。それは、現在発行されている通貨総量はそのままにして、その単位を流通財の価値総量と同じになるように、年度ごとの変動比率で通貨単位を切り上げ、切り下げすることで足りる。つまり、流通している通貨の単位を比率換算で読替えて修正して使用すればよいことになる。発行通貨の単位で測定すれば、流通財の名目的な価値総額が九十(90)であり、その時点での発行通貨の総合計が百(100)であるとすれば、発行通貨の単位を一割(10%)切り下げればよい。たとえば、一万円札を九千円に換算して流通させればよいということである。
しかし、このようなことは、国民にとって大きな負担を強いることになり、周知されないところで経済的混乱が生じるし、そして何よりも繁雑である。そこで、銀行券から政府紙幣へ切り替へする初年度において、価値水準(物価水準)を基準として価値尺度を固定し、今後の変動率修正で通貨制度を運用して行くことなるのである。
そうすると、発行切替の初年度における等価交換による通貨切替措置よって、銀行券と政府紙幣との発行数量に差異が生ずることが想定されるので、その交換よる差益又は差損は、国家の貸借対照表上に反映されることになる。中央銀行の清算時の非常貸借対照表と国家の貸借対照表その他の財務諸表及び財務諸表付属明細書(schedule)などにより、財務内容の開示(disclosure)された段階で判断されるが、最終的には、合併ないしは清算よる差益又は差損と連結させて処理がなされることなる。もし、大きな差損が生じたときは、後に述べるとおり、支分徴税権を相手勘定として処理されることなる。
このように、国富本位制は、単に通貨制度の改革だけにとどまらず、後に述べるとおり、これまでの政治制度、経済制度、法制度などの大転換を迫るものである。この大転換を行うことの困難と苦労は確かにある。しかし、それは、現在の経済制度機構の矛盾を小手先の弥縫策を講じて修正し続けても、将来の展望が開けずに、賽の河原での石積みのような苦労をし続けなければならないことと比較すると、取るに足らないものである。
現在の経済制度機構は、原子力発電所のような、巨大で複雑な機械装置に似ている。周期的又は突発的に常に必ずどこかで綻びが生じ、それが慢性化しながら悪化させて、経済制度機構の根幹を揺るがす大事故を起こし、世界の人々を混乱させ、平和と秩序を破壞する原因ともなりうるからである。
このような現在の経済制度機構は、到底長続きしない。一刻も早く解体して退場させなければならないが、これに代わる制度は単純かつ簡素で、誰もが理解できる堅実なものでなければならない。現在のように、專門家と称する一握りの者が、自分でも説明できないような專門的で訳の解らない言葉(ジャーゴン、jargon)を使つて経済を語り、一般の人が付いて行けないものであってはならない。
普遍性のある制度理論は、常に単純なものでなければならず、それに基づく具体的な制度は簡素なものでなければならない。財(流通財)と貨(通貨)を均衡させる「財貨均衡原則」に基づいて、国富を本位とする「国富本位制」を実現こそが我が国だけに留まらず世界各国で採用されるべき唯一の通貨制度であるとする理由はここにある。
(国富本位制の国内系と国際系)
この国富本位制は、世界各国家が国内系における通貨制度として採用されるべきものであるが、国際系の貿易取引と外国為替取引において、これをそのまま採用することはできない。
それは、「法の論理」が適用される国内系と「力の論理」が適用される国際系との相違に根差すものであるが、そもそも、世界政府が成立していない状況では、各国と世界とが完全なフラクタル構造になっていないためでもある。世界政府が成立して初めて、世界国家の国富本位制が完成することになるだろう。
しかし、それは実現する可能性が極めて低い。そのためも、この現状を踏まえて、国際系における通貨制度と外国為替制度について最適な制度を考案しなければならないのである。
ドルが基軸通貨として流通しているものの、国際流動性のジレンマ(international liquidity dilemma)により、ドルの流通が促進されることによる信賴の向上と、それによって価値の低下を招くことによる不安定化が逆に信賴を低下させるというジレンマを将来において解消できる目途がない。
平成二十一年三月二十三日に発表された「国際通貨体制改革に関する考察」という論文の中で、中国中央銀行総裁・周小川は、特定の国の通貨であるドルが「準備通貨」(基軸通貨)の役割を兼ねる国際通貨体制には限界があるので、ドルに代へてIMF(国際通貨基金)の特別引出権(Special Drawing Rights SDR)を準備通貨にすべきだと主張した。つまり、ケインズ案(バンコール案)に返るべしと発言したのである。ケインズがアメリカ一極支配に挑んだ新制度案を引き合いに出したのは、ケインズと同じ思いを共有しているためであらう。そして、世界における安定した統一通貨制度が必要であると感じるくらいに、現行の国際通貨制度に強い危機感と問題意識が世界の隅々で湧き上がつていることだけは確かである。
これらを解決するための方法として、まず結論を言えば、各国が貿易取引及び外国為替取引においてのみ金本位制(金塊本位制)を採用し、各国が国際取引に限定した金兌換通貨(貿易通貨)を発行することである。
バンコールのような人工貨幣単位(世界通貨)を創設するとなると、世界の中央銀行を設けて、それに通貨発行権を委ねることとなるので、現状ではそれは不可能である。世界政府がないままにそれを実施するとなると、国際的な力関係によって、FRBなどの欧米銀行家連合体が再統合した組織が編成され、それに牛耳られることなって、結局は元の木阿弥になってしまうことが必至である。
これを回避するためにも、統一した国際通貨でなく、国際基準による各国の金兌換通貨(貿易通貨)で足りる。各国がそれぞれ自国の通貨発行権に基づいて国際基準を満たした金兌換通貨を発行すれば、他国のそれと均一同価値のものとなるから、各国の貿易通貨が均一同価値で流通することになるので、すべてが国際通貨になるのである。
また、金塊(金地金)の現物取引でも取引は可能ではあるが、取引に用いられる現物の金塊について、その重量、体積、比重、純度などの検査や金塊製造者の信用性の調査などを取引毎に逐次実施する作業が必要となる。迅速性に欠き、運搬、保管などのリスク負担も大きい。そのために、どうしても金兌換券によることなるのである。
この金本位制は、リカードが提唱した金核本位制の一種である金塊本位制(金地金本位制、gold bullion standard system)であり、金為替本位制(gold exchange standard system)ではない。この金塊本位制は、イギリスにおいて一九二五年から一九三一年まで採用されていたことがあるものである。
ただし、その金兌換通貨である国外通貨(貿易通貨)の発行総量は、各国(政府と民間)がそれぞれ保有する金塊(金地金)量と同じでなければならない。また、これは金額が表示されるのではなく、金の重量が表示された金券(金塊引換券)である。そして、各国の貿易通貨も、金の重量表示であるから、各国の貿易通貨は均質かつ同価値である。この金本位制は、まさに金塊本位制であり、国内における国富本位制の通貨(国内通貨)と同じ趣旨による通貨発行額の制限を受けるのである。これは、国富本位制の一種である。しかし、国富の総量が国内通貨の総量を決定するのではなく、国富の一部である金塊(金地金)の保有総量が貿易通貨の総量を決めるという金塊本位制である。
そのために、国内通貨発行の基準となる国富からは、金塊の総量(政府と民間の保有総量)を除外し、金塊とそれ以外の国富とを通貨制度の上で棲み分けさせることになる。
金塊は商品(商品通貨)であるから、国富本位制による国内通貨と金塊本位制による国外通貨(貿易通貨)又は金塊自体との交換取引、あるいは、外国の貿易通貨と国内の貿易通貨又は国内通貨との交換取引が想定されるから、政府としてはその取引市場(金塊市場)を開設し、あるいは私的に取引される場合には取引当事者に届出義務を課して取引量の詳細を報告させ、金塊総量の変化を把握しなければならない。この金塊市場に参加できるのは、金塊保有者及び貿易通貨保有者であり、主として貿易業者になるから、輸出入の貿易収支はここでなされることになる。
輸出の場合は、流通財が国外に移転するので、国内的に見れば消費されたことになり、国内通貨総量を減少させる原因になるが、その対価として、自国又は他国の貿易通貨を取得し、これが金兌換通貨であることから金塊(流通財)の取得と同視できる。これに対し、輸入の場合は、その逆の関係になる。
それぞれの増減の変化は、最終的には金塊市場での貿易収支によって確定するが、その結果において、輸出超過の場合は、金塊以外の流通財が減少し、金塊が増加するので、それに対応する国内通貨量が貿易通貨量へと振り替へられる。また、輸入超過の場合はその逆の処理がなされる。
しかし、各国政府としては、財政的措置などにより、貿易収支によって変動する貿易通貨量を安定的に管理することが政策的に要請される。それは、貿易通貨量を急激かつ大幅に増減させることは、それが心理的に影響して著しい信用収縮や信用過熱を来すことになる恐れがあるからである。
そして、このような通貨制度を導入する前提として絶対に必要なことは、金塊市場における為替取引、交換取引では貿易決済に限定し、金融資本は絶対に参加させてはならないことである。後で詳しく述べるが、「お金がお金を生む」という制度は、国富本位制に反するので、全世界から駆逐せねばならないからである。
また、前に述べたが、基幹物資の自給率を高めるために「貿易をなくするための貿易」という方向貿易理論によって貿易自体が縮小に向かうので、各国が保有しなければならない金塊総量を大きく増やさなければならない必要はなくなるのである。
ところで、各国が、国外においても本位制を採用する必要があるとしても、その本位財を金塊にする必要があるのか、金塊以外に本位財とするものがありうるのではないか、との疑問がある。
しかし、いまのところ金塊を本位財とするには理由がある。まず、金本位制よりも長い歴史を持つ銀本位制について言えば、銀は金に比べると、これまでからして供給量や価格の変動が激しいことがあったことから、今後も同樣の事態が起こると予測されるので本位財としての安定性はなく不適格と思われる。
また、原油は、現実には世界の商品通貨として、実質的に原油本位制(crude oil standard system)として流通しているが、この原油を本位財として正式に価値尺度にすることにも問題がある。国際石油資本と、これに対抗して結成されたOPEC(Organization of Petroleum Exporting Countries)との均衡継続に不安があり、産油国と非産油国とが偏在している現状では公正公平な価値基準としては不適切だからである。また、原油は採掘生産開始までのイニシャルコスト(初期経費、初期投資、initial cost)は膨大であるが、この事業は送電事業と同樣に費用逓減産業であることから、その後における生産調整による価格操作や金融資本の介入が必然的に起こりうる可能性が高いからである。
なほ、我が国からすれば、籾米は、生活必需品である食糧として備蓄に最も適したもので、流通財の中でも富の蓄積を実現できる最高のものである。我が国は、これまで米(コメ)本位制(rice standard system)の時代があった実績があり、これが国の内外において新たな商品通貨となる大きな可能性がある。籾米の保管方法は比較的簡単で、玄米、精米と比較しても、長期にわたって劣化せずに保管ができるものだからである。今からでも、籾米本位制(米本位制)が世界的に併用的でも採用されれば、我が国を初めとする米生産国の地位が向上し、原油本位制との均衡が保たれることになる。
このような世界経済に移行するためにも、外国為替制度は、これまでの変動為替相場制(floating exchange rate system)から固定為替相場制(fixed exchange rate system)に復帰しなければならない。しかも、その固定為替相場制は、過去のものと同一ではなく、年度毎に更新して変更されるものでなければならない。更新基準は、前年度比を基準として、各国の基幹物資の自給率、国富総量、国富成長率、購買力平価などの加重平均による比率の増減で修正されるものである。自給率が高くなり国内供給力が増加して内需(domestic demands)が拡大すれば、国富が増加して国力が強まるので、国力の指標である自国通貨の価値を高めることになる。そうなれば、方向貿易の実践により、自給率を高めるために必要な外国からの生産財や知的サービスなどの提供を安く受けることができ、さらに自給率の向上につながる。また、その逆に、自給率が低くなり、国内供給力が低下すれば、輸入依存性が高くなり、国富が減少して国力が弱まるので自国通貨の価値を低くすることになる。
輸出に有利であるとして自国通貨の価値を下げることに腐心して貿易収支の黒字拡大に奔走する海外市場依存型の経済政策は、重商主義の亡霊(新重商主義、new mercantilism)に取り憑かれているためである。我が国は、貿易立国によって富を獲得したが、今や貿易立国ではなく、技術立国、投資立国となっている。そして、今度は自給力を強くして自給率を高め、完全自給国へと向かうことを国家目標とせねばならない。
ニクソン・ショックにより、固定相場制では一ドル三六〇円であったのが、変動相場制になった途端に一ドル三〇八円へと、今とは比較にならないほどの急激な円高になったとき、これでは輸出産業が大打撃を受けると動揺した当時の水田三喜男大藏大臣が、大変な事態になったとして昭和天皇に奏上されたことがある。そのとき、陛下からは、円高になるということは円の価値が上がるということで、国民の財産や労働の価値が高くなることではないか、とのお言葉を賜つたと仄聞する。まさに、このお言葉のとおりなのである。
(利子の禁止)
国富本位制から当然に導かれる論理としては、これから説明する利子(利息)の禁止である。利子(interest)とは、一定期間の貸付に対する対価のことを意味する経済学用語であり、法律一般では利息と呼称されるが、利子と同じ意味である。また、金利(money rate of interest)というのは、金融市場での利子又はその利率を指すことがあるので、ここでは統一的に利子の用語を用いることとする。
国富本位制における貨幣総量を決定するのは、国家の保有する流通財の価値総額である。
この流通財の価値総量に対応する通貨総量は、流通財の価値総量の増減に伴つて附従的に変動しなければならない。それは、通貨が流通財の影絵のような媒介物であることの宿命であって、これが国富本位制の根幹である。
ある年度末の時点における流通財の価値総量の残高を算定する場合、この減価分が控除されたものが、将来需要に備えられた遊休資源である「在庫分」となる。そして、これが次年度に繰り越され、次年度での経済活動によって流通財が加算され増減する結果として、再び年度末の在庫分が決定する。その残高の延びが国富の延びである。
そうすると、厳密に言えば、年度末における流通財の残高評価は、当年度内に生産された流通財の付加価値の総量から減価した価値相当分を控除する棚卸計算と、それ以外の流通財について行う減価償却計算によってなされることになる。
このことは、個別的通貨による認識と全体的通貨による認識の双方において、同じ結論に至る。流通財の多くは、時間的経過によって価値の減少を生む性質の財なのである。それゆえに、通貨だけがこれと異なる原理で運用されてならない。もし、さうなれば、通貨が流通財の交換媒介であるとする性質から大きくはみ出すことになる。通貨は、財の性質を越えることはできないし、これを越えれば通貨制度の崩壞を招く。これが「通貨の附従性」である。
また、次年度において流通財の価値総額が増加することがあるのは、新たな流通財が次年度で生産されたことによって増加するためであって、既存の在庫分の価値自体が増加するものではない。むしろ、減耗、劣化、消費、償却などによって減価することはあっても増価することはない。通貨もこれと運命を共にすることになる。
そうであれば、通貨それ自体を流通財とは無関係に貸借したときの利子は禁止されなければならない。流通財を貸借したとき、経年変化による劣化は誰が使用しても発生する固定費であるが、使用による減耗や汚損は使用によって生ずる変動費であるので、それを補填するために賃料を求めるのは当然である。賃料が歴史的に「損料」されてきた所以である。このことは建物の賃貸についても同樣である。建物は償却資産であるから、減耗や汚損に対する補填を求めることを認めうるからである。
では、不動産はどうか。不動産は非償却資産とされている。不動産借地料は、農地の小作料から発展したもので、その起源は年貢(貢租)である。つまり、小作料は租税から変形したものである。農地は、そもそも収穫物を生む財であるので、農地を小作に出すことは、期待される収穫量を分与することであり、その分与請求が小作料である。明治の地租改正では、国家、地主、小作人の三者の取分比率を定め、地主が国家に納入する地租は金納、小作人が地主に支払う小作料は物納となっていた。そして、戦後になって全て代金納制となったように、地租と小作料とは一体的に取り扱われてきた。そして、これが不動産賃貸一般における賃料として普及したものである。
ところが、財の貸借ではなく通貨の貸借の場合は、これと大きく樣相を異にする。通貨は、損料の性質でもなければ収穫量の分与の意味もない。通貨の貸主は、通貨を貸与することによりその価値が劣化することはなく、通貨を所持しているだけで収穫が図れる訳でもない。
個別観察貨幣の見地においても、通貨が不動産のみに特化して対応しているものでもない。また、貨幣総額の見地からしても、全体的には価値減少する特徴のある流通財の性質からして、流通財と運命を共にする通貨だけを特別扱いすることはできない。
では、利子を禁止する理由についてであるが、大きく分けて三つある。一つは歴史的理由、二つ目は理論的理由、三つ目は政策的理由である。
まず、歴史的理由としては、キリスト教(カソリック)やイスラム教における利子の禁止の思想である。これは、お金がお金を生むことを生業にすることが社会規範を乱すとする教えである。今日的にも、金融資本主義が暴走して拝金思想を蔓延させている元凶であると看破したことは先見の明と言える。しかし、単に、道德や心構えを説いてこれを防止できるものではない。すべては利子を禁止する社会の規範認識を形成することであり、それには、以下の理論的理由と政策的理由に基づく必要がある。
では、理論的理由とは何か。それは、これまで述べてきたとおり、国富本位制から当然に導かれる論理であるということにある。利子を認めることは、流通財自体は全体として永続性がなく自己増殖しないのに、それを表象する通貨が自己増殖することになれば、流通財の価値総量と通貨総量の対応関係が破壞されるためである。
次は、政策的理由であるが、これは多岐にわたる。まず、利子の禁止により、貯蓄の認識に変化を生じさせることができる。通貨を保有して貯蓄し続けるよりも、生活必需品などの流通財を備蓄する方向へと向かうことになるからである。特に、籾米の備蓄へと貯蓄性向を刺激することになる。富の認識が、通貨の貯蓄量の大きさではなく、流通財、特に生活必需品の備蓄量の大きさで実感することになる。間もなく到来する世界的に食料難に向けて、健全な危機意識を持てば、自ずとその方向へ向かう。前に述べたが、誰も享保の飢饉で百両の大金を首からぶら下げたまま餓死した商人にはなりたくないからである。
付言するに、籾米の備蓄は、備蓄されずに流通して消費される流通米を一定に保つ調整機能を果たすことになる。豊作と凶作の変動があっても、備蓄米の量を調整することで米価を一定に保たせ、米価を物価基準にすることができるという利点がある。
また、利子の禁止によって、貯蓄通貨の流動性が高まることである。通貨の流動性が高まることは、流通財の側面から言っても流動性が高まることになり、内需を拡大させることになる。内需の拡大によって、新たな雇用を創出し、国内供給力を高めるのである。
さらに、流通財の使用価値とその効用、効率を見直することになり、大量消費、大量廃棄の生活を改善させることができる。奢侈で過剰な消費と無駄で過剰な生産を抑制することができる。これによる消費の冷え込みを批判する者が居ると思われるが、このような冷え込みは、むしろ望ましいことである。つまり、過剰生産と過剰消費に支えられた経済と、その拡大が経済成長であるとするGDP至上主義は、資源の無駄遣いを推し進めるものであるから、一日も早く退場させなければならないのである。
そして、利子の禁止によって、予定調和か「見えざる手」のように、自づと自給自足体制へと志向して行くことになる。そして、家産の形成を促進するとともに、人々に人生の価値観を確立し、家族生活の将来設計を可能ならしめ、生きる希望と目標を与えることになる。
(通貨保有税の創設)
国富本位制を導入することと利子を禁止することとが制度的には不可分一体のものであることはこれまで述べたとおりであるが、これだけで充分であるかと言えば、決してそうではない。それは、これから述べる「通貨保有税」の創設が必要であるということである。この創設は、利子の禁止と一体となって国富本位制の制度を補強することになるからである。
この通貨保有税の導入によって政府に貫流した通貨は、通貨総量を減少的に調整する場合における「通貨消却」の対象とすることができることから、通貨総量の調整機能を発揮する点においても有用である。
ここで、通貨保有税というのは、通貨保有者に対して、通貨を保有していることに対して通貨保有量に応じて課税される財産税のことである。
現金には個性がないので、これを所持することによってその所有権が認められることが原則であるが、封金(封をして分離された特定の現金)の場合の所有権はこれを保有(保持)している者ではなく、封金を寄託した者とされる。このような性質であることから、この租税は、実質的な所有権を論ずることなく、外形標準により保有したとする事実が認定されることによって課税するものであることから、通貨保有税と名付けた。
そして、この課税対象者は、現金の保有者のみならず、現金と同視しうるものの保有者も含まれる。換金、払戻、回収が容易とされている流動資産の保有者であり、具体的には、預貯金等の名義人、貸金や寄託金などの債権者名義人である。
この通貨保有税の性質は、通貨発行管理事務の取扱手数料として受益者負担の原則による租税である。経済的機能としては、これまでの利子を債務者が債権者に支払うのではなく、債権者と債務者がそれぞれ政府に支払うことになる。債権者は貸金の債権者として、「負の利子」を政府に支払い、債務者は貸金の保有者として、これまで債権者に支払っていた利子を債権者に代って政府に支払うという機能になる。それぞれが課税対象者として支払うことになるのである。その両者が負担する税額は、その通貨保有に課せられた税額を折半したものとなる。
しかし、通貨保有税は、共同事業のための出資金や通貨以外の流通財の賃貸における賃料を対象としない。共同事業による配当金等の事業所得や賃料所得に対して課税をどの程度行うかについては、税制全体との関係で検討すべきものであって、ここでは検討の対象としない。
ところで、共同事業のための出資とは、事業による利益と損失の損益割合が定められたものを言い、特に、損失の共同負担がないものは、実質的には貸金と看做される。貸金か共同事業出資かは、損失が発生したとき、その共同負担が履行されるか否かによって判断される。政策的には、実質的に貸金であるにもかかわらず共同事業出資であるとの仮装がなされたときは、債権者と債務者に対し、貸付時から通貨保有税相当の税額と課徴金を徴収することにすれば、法令遵守を担保させることができる。
また、通貨保有税は、外形標準課税の一種であるから、貸金を原資とする経済活動の最終的利益の多寡とは無関係である。さらに、通貨保有の多寡は所得の多寡と正の相関関係があるため、累進税(progressive tax)の性質を持ち、消費税(consumption tax)などのような逆進税(regressive tax)でないため、所得の再配分機能を充分に発揮することになる。
ところで、国富本位制、利子の禁止及び通貨保有税の創設とが一体性を持つことに合理的な根拠があるとしても、これまで社会に定着し人々が慣れ親しんできた、金銭を借りることの利益とその対価を求めることの意識を簡単に捨てろとするのは傲慢ではないか、との批判がありうる。
しかし、その批判は全く当たらない。人の意識は簡単には変へられないし、無理に変へさせるやうことは避けなければならないのは当然であって、これらの制度の導入は、これに反するものではない。つまり、通貨保有税が導入されても、その意識に本質的な変化は生まれないし、むしろ、その意識が維持されることになるのである。
それは、まず、貸主としては、そのまま保有すれば通貨保有税を負担することになるが、貸すことによって、その税額が半額になる利益(税負担半減の利益)があり、その利益意識が貸主側の動機付けになる。また、借主としては、借りることにより、これまでの「正の利息」に代はつて、半額の通貨保有税を負担することで事業資金等に活用できる利点があり、この利益意識が借主側の動機付けになる。これまで貸主に抱いていた負い目は、貸主に利子を支払うことによるものであったが、それを政府に支払うことによって、納税者としての自負を生み、貸主との対等関係を維持することができる利点もある。それゆえ、当事者の利益意識の態樣が変化するだけで、利益意識を否定することにならなず、貸金取引を躊躇させたり否定することには至らないのである。
特に、金融機関としては、市井から預金を集め、半額の通貨保有税の負担を原価として、共同事業出資をすれば、それによる利益から税額負担分を控除した差額が粗利となる。また、共同出資できない資金については、さらに他者に貸し付けることにより、その半額の税額を軽減できる。
これまで、金融機関は、国の内外における樣々な事業を牽引させてきたが、これからは、金融だけに特化した金融活動の役割を果たす必要はない。しかも、世界の富を遍在させて所得格差を増大させてきたことの歴史に学べば、金融機関その他の金融資本が実体経済を混乱させる金融資本として暴走してきた時代を終わらせる必要があり、そのためにも、通貨保有税の導入によって金融專門の活動を終息させ、金融資本(貸付資本)から投資資本へと経済活動を転換させる必要がある。
そして、なによりも通貨保有税を導入する効用としては、これまでの通貨に対する信仰による通貨保有から、食料備蓄を中心にした流通財保有へと人々の意識を自然と根付かせることができることである。通貨保有量の大きさを豊かさとしてきた意識から、流通財保有量の大きさを豊かさであると実感する時代へと移行するのである。この意識の変革によって、国民のすべてが、備蓄に堪える流通財を優先的に選好(preference)してその購入のために保有通貨を放出すれば、その乗数効果(multiplier effect)は甚大なものとなる。企業は、その需要に応えるために、優良な耐久財や長期の備蓄が可能な消費財などを生産する方向へと向かう。使い捨て商品のような耐久性のないものは、消費選好から外れる。そうして、生産と消費の経済循環が、これまでのような奢侈で過剰な生産と消費の循環から樣変わりし、資源の無駄使いを止めることができるのである。
(自立再生社会の諸制度)
世界各国が国富本位制を採用して利子の禁止と通貨保有税を実施し、国際社会が金塊本位制と固定相場制による経済秩序を再構築すれば、世界は、自給率を向上させる国際協調による公正な競争社会となって平和を実現する。
FRBを頂点とする一握りの者による国際金融支配から脱却しなければ、世界の人々の平和で豊かな生活を実現することはできない。そのためには、各国の圧倒的多数の人々の政治参加によって、中央銀行に奪取されてきた通貨発行権を国家に取り戻させ、中央銀行と金融為替市場を廃止させるなどの法制度を、政治の世界において実現させることが必要になる。この政治的変革によって、必ず賭博経済を終焉させることができるのである。
これにより、各国は、自給力を強め自給率を高めて自国の国富を大きくするために、樣々な政策を打ち出し、諸制度を整備することになる。
合理主義、個人主義から脱却して、本能主義、家族主義へと転換し、個人が財産権の主体となる私的所有制(私産制)から、家族がその主体となる家族所有制(家産制)へと移行する。
家族は、生活必需品を自給するための自給地、自給設備などの家産を取得し、食料などの自給自足生活を目指して協同する。
掛け声や精神論だけの家族主義ではなく、家産の協同管理によって自づと家族の絆が深まるのである。家産制度は、家族制度の再構築と、祭祀の道の実践にとって不可欠な制度なのである。
家産制度については、その基底となる親族法、相続法の家族法制や相続税制の改正が必要となるが、その概要について素描してみたい。
まず、個人所有が否定されるので、遺産相続はなくなる。相続放棄も遺産分割もなくなる。そして、家産の代表管理者(家長)制度を設けて、家長の資格要件、喪失要件、家族全員(家人全員)を管理者とする家族会議(管理会議、family council)などの詳細な規定と、分家制度と復家制度を定めることになる。
分家制度とは、家族構成の変更や家産の状況などから、大家族の一部が本家と別れて家産を営む場合の制度であり、復家制度とは、その逆に、分家した家族などが本家に復帰又は帰属する場合の制度である。前者は会社分割、後者は合併に類似した現象である。
個人所有がなくなるので、遺産分割で紛争が起こることはない。遺産分割により家産が自立再生機能を失って切り売りされることもない。戲け者(田分け者)を見ることもなくなる。
そもそも、家産であることを理解すれば個人所有に拘る必要はない。すべては「家族の自治」で解決できる。身の回りのものや個人とって精神的な価値があるものなどについては、家族会議で協議し、終身その貸与を受け(終身貸与)、あるいは一定限度と範囲の家族所有の流通財についてその処分権を授与(限定的処分権の授与)してもらう内容などの「家法」を定めればよい。国家と家族とはフラクタルな関係であり、国家の自治は家族の自治の雛形だからである。
物を大切にする心は、個人所有からは生まれない。すべては「授かり物」であり、自分が手にしているものが御先祖のお陰によるものであって、それが家族の財産であり、国家の財産でもあるとする意識から始まるのである。
ところで、これまでの個人所有を否定して、家族という法人所有に移行させる方法については、まず、これまでの個人単位の戸籍制度を家族法人単位の戸籍制度に改編する必要がある。そもそも、戸籍という言葉からして、戸(家)に属する家人(家族構成員)の名籍(名前、生年月日、続柄などの台帳)なのであるから、戸籍の元に意味に戻るだけである。ここで家人の範囲が決まる。戸籍が家族法人登記を意味し、戸籍の登載によって家族法人は成立する。そこで、家人が所有していた積極財産、消極財産のすべてが家族法人に当然に帰属するものとし、登記、登録の制度がある財産については、その旨の登記がなされて完了する。分家や復家も戸籍の変更によって行われ、家人が移動することなる。
家産は家族という法人の所有であり、家長の単独所有ではないので、家長の死亡による家族の代表者の変更(家長の変更)に過ぎないので相続税が賦課されないのは当然であるが、家産を形成しない財産については相続税(家長承継税)は賦課される。このことは企業の場合も同樣(代表者承継税)である。ただし、家長や代表者の死亡以外の理由による変更(交替)の場合は課税されない。
企業の場合は、代表者の変更については会社法等の守備範囲であるが、企業の財産は、企業そのものの所有であるから、株主という不労所得者の判断に左右されない。企業の経営は、その就労者が貢献度に従つて協議決定すればよく、株式制度は早晩廃止される。資本金を構成する株式は、その保有者が企業の損失補填をしない性質のものであることから、通貨保有税の対象となる貸金として評価される。株式も社債も借入金も、すべて通貨保有税の対象となる。
ところで、家族でも企業でも、家産に課税して家産を縮小させるのは、家産制度の根本を危うくするが、その他の財産(流通財)に対して、死亡による家長や代表者の承継に際して相続税類似の家長承継税や代表者承継税を課税をするのは、所得の再配分の見地からである。課税される家族や企業が保有する家産以外の流通財は、家産になりうるものとそうでないものとがあり、将来において家産とする準備中のものもあるに違いない。しかし、もし、家族財産のうち、家産以外の一般家族財産が膨大であるときは、そのような富が独占されていることによって他の家族の家産形成が妨げられていることになる。そして、これの徴税方法を物納にすれば、他の多くの家族に再分配(有償譲渡)して家産を形成する機会を与えることができる。過度な累進課税にする必要はないが、少しでも多くの家族がそれぞれの身の丈に合つた自給自足生活を実現させることが国家の理想である。すべての家族の家産形成の機会は保障され、形成された家産は保護されるべきである。
「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」と言うが、身の丈を越えた過大な財産を独占することは、必ずしも家族の幸せには結びつかない。祖法に照らしても、「長者の脛(ハギ)に味噌を付ける」必要はない。「長者、富に飽かず」と言うが、「大欲は無欲に似たり」の喩えの如く、欲で身を滅ぼす家族を出すような社会であってはならないのである。
財政と税務の改革も必要となる。国家の財政把握について、複式簿記が採用されていないのは、驚くべき怠慢である。それゆえ、まず、国家と中央銀行の財務処理に関して、複式簿記を早期に導入し、国家と中央銀行との正確な連結財務諸表を作成公開させて精密に検証することが急務である。これは、政府と中央銀行の合併、中央銀行の廃止その他の方針を決定するために必要な作業となる。
そして、複式簿記が導入されるということは、これまでの単年度主義会計を廃止し、一般会計と特別会計を合体して、すべてを審査対象とする継続度主義会計にすることである。これには、帝国憲法の改正が必要となる。
これにより、これまでの官僚利権の温床である特別会計にメスを入れれば、官僚利権は消滅する。そして、故意又は重大な過失で国家に損害を与えた公務員に対して、民間の場合と同じようにその公務員に国家に対する損害賠償義務を課す特別法を制定して実施すれば、仮に、それ以外の種々の改革が遅延しても、公務員制度改革は大きく前進する。そうすれば、官僚が国家を食い物にしてきた不正支配を一挙に壞滅させることができるのであり、財政の健全化が図られ、基礎的財政収支(primary balance)は改善し正常化に至るのである。
また、通貨制度と租税制度の一体化を図るための予定申告と確定申告による申告制度を創設する必要がある。これは、通貨総量を算出するための基礎資料となるのと同時に、納税手続を兼ねるからである。これまでは個人単位であった複雑で膨大な申告制度を統一し、その申告件数は家産単位になることから、申告件数は激減し、処理の事務量も大幅に軽減される。そして、政府紙幣に通し番号を付せば、電磁的技術によって通貨流通の追跡調査と統計資料の取得を可能とする。
次に、家族の構成員の行った行為は、原則として、すべて家族の行為と看做され、すべての法律関係は、その家族(法人)に帰属する。ただし、刑事責任などにおいて、財産的制裁(罰金、科料など)以外はその行為者個人が負う。財産的制裁は、家族の代位責任となる。
そして、これまで認められてきた個人の破産と免責は存在しなくなる。また、家族(家産)の破産と免責の制度は認められない。家族は、代々にわたって無限責任を負担する。企業についても同樣である。それが家産制度であり、この代位責任の導入こそが、社会秩序の維持と家族の絆を強化することになる。
民度を高め、治安を維持して犯罪を防止するためには、まずは教育の改革が必要となる。家産による食料その他生活必需品を生産するための技術を習得されることが基本となる。そこから、自然の惠みと祖先の知惠と労苦に感謝する心が養われる。自然に接し、作物を育て、物を生み出し、知惠と努力によって食料を得ることを経験すれば、人間の持つ生命力と本能を鍛えることができる。そうすれば、社会の秩序を維持して自らを研鑽することの大切さが理解でき、人に必要な德目を理解して実践することができる。
従つて、犯罪受刑者に対しても、家産形成と家産による自給の技術を訓練させて、社会復帰、家族復帰を果たさせることが重要で、これが再犯をなくし再犯率を激減させることに繋がる。刑務所は、統制のとれた優良な職業訓練所であると同時に家産形成を指導する教育機関となり、受刑者の労働による独立採算制を導入して運営される。単に罰則強化をしたところで、社会教育や家庭教育が荒廃していれば犯罪抑止にも再犯防止にもつながらないからである。
このようにして、法制と税制の改正がなされれば、通貨の貯蓄から食料の備蓄への経済動向が生まれ、利子の禁止と通貨保有税の導入によって、通貨の流動性が高まつて内需が拡大する。これにより、僅かな政府支出による以上の大きな乗数効果が生まれる。政府は、家産形成の優遇措置と、家産制度による自給自足促進の法制と税制を整備するだけで、後は、家産形成と生産活動に励む家族の活動を見守ればよいのである。
経済成長をGDPの伸び率で測定する時代は終わった。これまで、企業の自家消費分を機会費用(opportunity cost)としてGDPの計算に入れていたとしても、消費主体の家計(家族)が自家生産して自家消費することまでは参入されない。たとえば、第一次産業に分類される活動をする家族が、自らが生産し、あるいは漁獲した物などを常に自家消費するだけで、外に出荷しないときは、企業として認定されないから、その自家生産分(自家消費分)はGDPには参入されない。そうすると、このような自作家族が増加すればするほど、同じ経済規模であったとしても、GDPは低くなる。しかし、これは健全な方向なのである。これこそが経済成長として認識されるべきなのである。
GDPの数値は、分業体制が深化すればするほど大きくなる。たとえば、自分で歩いて買い物をすれば済むものを、わざわざ委託業者に依賴してタクシーを使はせて買い物をさせたとする。同じ物しか得られないが、業者に支払う手数料とタクシー代金を払うことだけで時間と手間が省けるなどと怠け者の論理で分業を進めて行けば行くほどGDPは増える。つまり、委託業者に支払う手数料とタクシー運転手に支払うタクシー代金の費用が加算されてGDPが増えるのである。
また、無駄をすればするほどGDPは大きくなる。たとえば、更地に建物を建築し、それを直ぐに解体し、さらにまた新しいも建物を建築したものをまた解体して更地に戻したとする。結局は更地のままになるので、何もしなければよい。何もしなければGDPは増えない。しかし、こんな無駄をすると、二回分の建築費用と二回分の解体費用がかかり、その支出がすべてGDPに加算されて、GDPは膨れ上がる。
何もしなければ流通財の価値に増減はないが、こんな無駄をすれば、多くの流通財が滅失、消費されて経済的損失を被つている。ストックの視点で見れば、無駄をすれば大きな損失を出し、評価としてはマイナスである。ところが、GDPというフローの視点で見れば、損失のすべてをブラスに捉えるのである。このからくりは、マイナス(-)を絶対値(absolute value)で認識してプラス(+)にするからである。これは、「得は得、損も得」とするペテン師の論理である。そんなものが経済規模や経済成長の基準であると偽って、その規模と延びに顕を抜かすこと自体が噴飯ものである。
このように、GDP至上主義者は、企業は生産者、家計は消費者という二分法で分業体制が深化すればするほどGDPが延びることから、それに拍車を掛けるために、過剰消費と無駄遣いを煽る。不道德極まりないことである。経済学者らの中で、質素検約を奨励して人の道を説く人を見たことがない。居たとすればそれは偽善者である。経済学者は、すべて背德の人達であると言って過言ではない。人々が今後の経済の不安を抱いていることを逆手に取って、現在的な経済問題の解決策やそのための新しい理論や政策を教えてあげるなどして講演や出版などで講釈するものの、これまでの埃にまみれた陳腐な知識在庫の中から不良品の理論を取り出して来て、それを角度を変へて見せびらかしたり、ジャーゴン(jargon)の呪文を唱えて誤魔化すだけで、何らの解決策も示せない。羊頭狗肉どころか、羊頭を掲げて何も売らない(売れない)のである。人の不安に託けて人心を惑わして商売を続ける。経済学は、まさに「不安産業」の業者が人を騙すための道具(tool)と化してしまったのである。
このような人達の言葉に騙されてはならない。一刻も早く分業体制に歯止めを掛け、「社会分業」から「家族分担」へと向かえば、親孝行までも他人任せにして分業することから生ずる医療、介護、福祉などの樣々な問題は一挙に解消へと向かう。また、家産制度を確立させ、それぞれの家族が自給力を付け、自給率を高めて行けば、それが積算されて国家の自給力と自給率を高めることなる。そうすれば、家産を利用した家族労働よって生産が向上し、雇用問題や失業問題を徐々に解決する糸口が見いだせることになるのである。
(自立再生社会の課題)
このように、国富本位制と金塊本位制の導入、利子の禁止と通貨保有税の創設、家産制度の推進、法制税制の抜本改革、方向貿易理論と効用均衡理論などによる政治経済改革、複式簿記の採用、一般会計と特別会計の合体などを実行すれば、必ず自立再生社会は実現する。
しかし、中央銀行の消滅、金融專門業の終息、証券取引所等の閉鎖、金融資本の貿易市場参入禁止などを含めて、これらの政策の実施については、決して急激であってはならない。自然的な推移を見届けて、充分な経過措置を講ずる必要があるが、これら一つ一つの論理や政策には、すべて根拠があって充分に納得しうるはずである。
しかし、直接の利害関係者は別として、一般の人々がこれらを全体的に見て過激な主張と感じて拒否反応が出るとしたら、それは合成の誤謬(fallacy of composition)を口実とした錯覚である。これらの政策について優先順位をつけて漸進的に混乱を回避した政策の措置を採ることになるにもかかはらず、これをしないと決めつけた偏見と誤解に過ぎないのである。
ただし、これらの目標に到達するまでの政策的な課題は多いと思われる。建設的な疑問には真摯に答える必要があることは言うまでもないし、現に、今も尚、検討課題がいくつか存在する。以下は、その検討課題について触れてみたい。
まず、国家の財務諸表において租税徴収権をどのように取り扱うかという問題がある。
国家の貸借対照表に、簿外資産(asset out of book)である租税徴収権を固定資産として計上すべきか否かの検討である。
これについては、自家創設営業権(self good will)についての考え方が参考になる。自家創設営業権とは、自己が営業を継続して開拓してきた「のれん」のことであり、平均的な利益水準を越えるものと評価されているものである。しかし、これには、貸借対照表能力(B/Sに計上しうる資格)がない。ただし、これを有償で譲渡すれば、その譲受人には、自己の貸借対照表に営業権として計上ができるのである。このことから判断すると、自国の租税徴収権には貸借対照表能力がないと考えられる。また、租税徴収権は、評価算定不能の資産であり、国家の永続性を踏まえれば、その価値評価は無限大となって、数値計上は不可能となる。
しかし、これは、租税徴収権それ自体、つまり基本権としての租税徴収権のことであって、年度ごとに発生する支分権としての租税徴収権のことではない。
ところで、国家の貸借対照表の資産合計が負債合計を越えると債務超過(負債超過)となることは政策的にも避けるべきである。これを回避する方法として理論的に可能なことが二つある。
一つは、肇国以来の資本金(元入金)を計上する方法である。ところが、現在ですら未だに単式簿記の予算制度を採用しているのに、過去に遡つて元入金を累計査定することなどは不可能なので、せめて、明治以降の予算制度によって国土に投入した資金を資本金として計上してはどうかということである。
もう一つは、先ほどのように、租税徴収権の基本権を計上するのではなく、その一部と認識できる支分権を計上する方法である。これまでの租税徴収実績を踏まえて、数年度の租税徴収額の平均を算定し、現在の債務超過額がその何年分に対応するかを計算する。そして、債務超過の総額に対応する額を「支分徴税権」として資産計上することである。いわば、基本権としての租税徴収権では計上できないので、債務超過分に相当する支分権の租税徴収権を基本権から切り取って一部計上する方法である。
このうち、前者の方法は、現実的でなく、その価額評価も恣意的になるので採用できない。そこで、後者によることになるが、これによると、何年分の租税徴税分が前倒しされているのかを明確にすることができる。
ところで、大災害や大事故などあって、流通財が大きく減少して国富が収縮することになった場合、理論上は発行通貨量を大きく減量させることになる。災害や事故が小さな規模のものであれば、国富の彈力性よって吸収できるが、大規模な場合はそうは行かない。長期償還の国債か、償還期限を定めない永久国債(permanent debt)を発行して政府が通貨を調達し、それを復旧復興財源として投入することができる。永久国債(公債)というのはイギリスで実例がある。しかし、政府支出が突出すると、通貨不足によって民間よる復旧復興支援の足を引つ張ることにもなりかねない。これが大災害、大事故などの際に、通貨量が減量することの抱える問題である。
通貨量調整は年度末になされるので、その処理までの時間のずれ(tme-lag)があれば、その間にある程度様々な調整をすることができるが、もし調整できないときは、制度上は発行通貨量を減量させることになる。それでは流通する通貨量が不足して復旧復興に必要な資材の調達に支障を来す可能性があるので、そのような場合には、特別措置を講ずる必要が出てくる。
それは、前にも述べたとおり、基本権である租税徴収権から派生する「支分徴税権」を相手勘定(資産勘定)とし、「発行政府券」を負債計上して、特別に通貨発行をすることである。ここで「発行政府券」というのは、国内通貨としては同一のものであるが、これと異なるのは、通貨発行益(シニョレッジ、seigniorage)という打ち出の小槌(通貨発行権)を発生させるものである。これはあくまでも例外のことであり、国家緊急権の発動としてなされるものである。
これが例外である所以は、国富本位制による流通財の価値総額に対応する通貨発行には、この通貨発行益はなく、逆に、通貨発行費用が発生するだけのものである点にある。これは、たとえて言うならば、銀行が顧客に統一手形用紙を交付するようなもので、それを交付したことによって、銀行が手形上の利益を得るものではないのと似ている。
このように、いくつかの課題はあるとしても、大きな問題や支障はない。しかし、一足飛びでは実現しないものである。長期の国家目標を立て、法制、税制の改正によって漸進的に移行して行く。そうすれば、経済が経世済民という本来の意味を取り戻せる日が必ず来るのである。
財貨の均衡が実現すれば、インフレもデフレもなくなる。天気予報と一緒に株価速報や国際為替相場の金額がリアルタイムで報道されるというおぞましいこともなくなり、額に汗して働く人の平穩な生活が回復するのである。
合理主義と個人主義を捨てて、本能主義と家族主義に戻る。本能主義とは欲望主義ではない。欲望主義こと合理主義なのである。
「本能」に導かれた直観の道が「道義」であり、「理性」で判断して正しいとしたものが「正義」である。道義に反する正義があること、不正義なものでも道義に反しないものがあること、道義は正義に優先することなどは、我々の御祖先の教えである。
これまで御先祖は、この本能原理に基づき、祭祀の道と家産制度による自給自足生活を営んできたが、合理主義と個人主義という理性の産物によって、宗教を作ってだんだんと祭祀の道から遠退いた。また、家族が財産を所有する家産制度を壞して、個人が財産を所有する私有制度となり、分業体制によって自給生活を捨てることになった。
しかし、人類は、再び本能原理を回復させ、祭祀を復活させ、これまで理性によって低下させてきた生命力を取り戻さなければならない。祭祀とは、祖先祭祀(氏神)、自然祭祀(産土神)、英霊祭祀(守り神)である。そのためには、ばらばらになった家族、分業体制で工程が細分化された物作り、生産と消費の二極分化によって低下した各家庭の食料自給力などを少しずつ元に回復させ、この拡散する世界に歯止めをかける必要がある。
その目指す方向は、家族の統合と生産工程の収束にある。
仮想水(バーチャルウォーター、virtual water)、食料の重量と輸送距離の積(フードマイレージ、food-mileage)、地産地消という言葉は、生産、分配、流通、消費、再生という水と物資の循環の輪を極小化して効率化を図り、自立再生社会の実現に向かうための指標である。
その実現までに時間がかかつても、大きな国家目標を立てて前進せねばならない。この方向は、全世界が競つて同時に行っても争ひの原因にはならない。拡散から収束への方向は、それぞれの民族がその本能原理に基づいて、個性的に歩む必要があるが、その手法の違いは、全体としての方向を妨げることにはならない。山の頂上に至る道はいくらでもある。しかし、目指す方向は一つである。
本能原理は、フラクタル構造になっているので、「合成の誤謬」(fallacy f composition)は起こらない。だからこそ本能原理による「道理」なのである。決して一人勝ちする「正義」ではなく、すべての人々が共生、共存、協調できるのが「道義」である。
これによって、全世界に平和と安定が実現するもので、全ての民族のそれぞれの本能原理に最も適した「道」、それが自立再生論という人類の「道義」なのである。
花札遊びやトランプ遊びに「婆抜き」というゲームがある。婆とは花札では白札、トランプではジョーカーのことである。
品のない名前ではあるが、ルールは至って簡単である。数人に同じ枚数の手札を配り、一人づつ一定方向に順次循環して相手の手札から一枚づつ引き抜き、同位の札二枚の組み合はせができれば、その場に捨てて行き、最後までジョーカー(白札)を持っていた者が負けとなる、あのゲームである。
ジョーカーとは、全能、最高の札であるが、これを長く所持することは身の為にならないことを意味しているゲームである。
そして、この何気ない遊びが、実は家産制や通貨制度などによって自立再生社会が実現できることを寓意しているのである。
つまり、同じ数字の二枚の札が揃ふと(家産が形成されると)、その二枚の札は場(流通経済)からリタイアする(非流通財となる)。そして、一番先にすべての札をリタイアさせると(家産形成によって完全自給できると)、その者が勝者、リタイアできずに(家産形成もできず完全自給できずに)最後までジョーカー(通貨)を持つたままの者が敗者ということになる。
ジョーカーは、「剰貨」(余剰通貨、過剰通貨)と聞こえるではないか。
やはり、真理を示し、幸せを運ぶものは、「青い鳥」のように、身近なところにあったのである。